夏の空を仰ぐ花 ~太陽が見てるからside story
「翠ちゃん」


看護師さんが、補欠にしがみつくあたしの肩を叩く。


「お願い。この手術、簡単なものじゃないの。手術の時に」


説明を最後まで聞かずに、あたしは補欠の膝の上からカエルのように跳んで、


「命だ! 髪の毛は、女の命だ! 切ったらぶっ殺す!」


病室を飛び出した。


「翠!」


背中に、大好きな補欠の声が突き刺さる。


でも、立ち止まる事も、思い改める事も、振り向く事だってできない。


この髪の毛を切るなんて、あたしにはできん。


「響ちゃん! あのバカ娘捕まえて! 早く!」


母の悲鳴のような声を聞いても、あたしは逃げる事を諦めなかった。


切るもんか。


絶対、切ってなるものか。


だって、この髪の毛は……。


隣の病室、ナースステーション、トイレ、洗濯場、洗面所。


「待て、翠! 翠!」


補欠が追いかけて来る。


「嫌じゃ! 来んな! 来たらぶっ殺す!」


それを、あたしは必死に振り切ろうとした。


「逃げんな! 翠!」


「るっせえ! 補欠のくせに!」


ありとあらゆる場所に突入しては飛び出して、必死に逃げまわった。


「来るなっつてんべ! 補欠が! くそったれー!」


本気で逃げまわった。


だって、だって、この髪の毛は……補欠が……。


「翠!」


さすが、野球部だけのことはある。


普段、運動なんかしないあたしはすぐにヘロヘロになり、


「くっそー! 離せ! 離せーっ!」


「落ち着け、なっ、翠!」


8階から7階へ下りる非常階段の踊り場で、補欠に捕獲されてしまった。
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