君の香はたまゆら
君の香はたまゆら
 彼を待っていた。中学校の校門、その門柱に背を預けながらである。
 中学生活最後の夏期休業が始まっていまだ一週間しか経っていないとはいえ、蒼穹から太陽が注いでくる苛烈な日差しは明らかに真夏のものだった。じりじりと肌を焦がすような、灼熱の視線。桜の葉の天蓋がある程度はその光線を遮ってはいるが、姦しい蝉時雨と共に葉陰から零れた白い陽光が絶え間なく頭上から降り注いできている。目庇を作って、澄香(すみか)は空を見上げた。太陽は朝登校した時からぐるりと位置を変え、既に南中に差し掛かっている。
 一つ嘆息し、澄香は目庇を解いて己の髪に指を絡ませた。襟足のはねた癖のあるショートカットは未だしっとりと水気を含んでおり、嗅ぎ慣れた塩素の臭いが僅かに鼻先を掠めて漂ってくる。学校のプールの塩素は濃過ぎる──この三年間夏になる度に言い続けてきた文句を、澄香は懲りずにまたしても胸中で呟いた。だがよくよく考えてみれば、この学校の水泳部員としてこの臭いを嗅ぐことができるのは今年の夏が最後になるだろう。そう思うと、何処か愛おしげに感じなくもない。
 と。
 気配を感じて、澄香は首を捻って門柱の陰から駐輪場を振り返った。門を入ってすぐ左手にあるプール、その脇にある駐輪場から、シルバーの自転車を押して一人の少年が歩み出て来る。T字ハンドルの右側に自転車通学者用のヘルメットを引っ掛けて、彼はまだこちらに気付いていない様子だった。足下の砂利を適当に蹴散らし、ホイールのカラカラとした乾いた音を蝉時雨に混ぜながら、雑な足取りで歩みを刻んでいる。
 その姿を認めると、澄香は一旦門柱の陰に頭を引っ込めた。今更無駄だと分かっていながら癖ではねている髪を撫で付け、己の服装をさっと確認する。学校指定の白いシャツに、紺のハーフパンツ。踵のすり減った赤いビーチサンダルを履いた足下に置いてある荷物を肩に掛け、早まった鼓動を数えながら彼女は意中の相手を待った。
 徐々に足音が、自転車の音が近づいてくる。それに比例して全身を巡る血液の量が増したようにも感じられる。肩掛けにしたビニールバッグの紐を握る手に汗が滲んでいた。
 
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