君の香はたまゆら
そんな中で。不意に視界の端に、自転車の前輪が現れる。
「あ」
 聞こえてきた呆けた声に、澄香はゆっくりと顔を上げた。自転車を止めたその声の主に向かって、告げる。
「遅いよ」
「……別に待ち合わせたつもりはないけど」
「まあ……そうだけど」
 なるべく無表情を装いながら、澄香はこっそりと眼前の相手を観察した。
 スイムキャップとゴーグルの形に日焼けした小麦色の肌を彩る、真っ直ぐに伸びた濡れた髪。塩素負けして、ところどころ赤茶げて色が抜けてしまっている。いつも何処か眠たげな黒い双眸は、今は思いもよらぬ伏兵に驚いているらしく僅かに見開かれていた。自分が部長を務める水泳部ではくじ引きで副部長になったその少年、隼人(はやと)は、細い目を更に細めて疑問の形に口を開いた。
「……何でここにいんの」
「乗せてって」
「は?」
「駅まで」
 まるで小さな子供がするように、一方的に告げる。まさか一緒に帰りたいがために彼が掃除兼塩素投入の当番であるこの日を狙い、活動終了から炎天下の中で待ちぼうけしていたなどと、口が裂けても言えるはずがなかった。もっとも、先の発言といいこの偶然とは言い難いシチュエーションといい、よほど愚鈍な相手でなければすぐに見破られるであろうと今更になって気付いたことだが。
 やはりそれを察してだろうか。隼人は訝しげに眉を顰めた。途端、自分の顔面に血が昇ってくるのを自覚する。頬の紅潮を日焼けのためだと勘違いしてくれと願掛けながら、澄香は相手の言葉を待った。
 刹那の間。辺りを忙しなく見回してから、隼人が静かに答えてくる。
「……乗れば」
 素っ気なく返して、隼人は愛車を示した。荷台をこちらの前まで引っ張って、そのまま背を向ける。サドルに跨ろうともしない彼を訝しげに見つめていると、澄香よりも先に彼が口を開いた。
「……乗らないの?」
「乗って良いの?」
 逆に聞き返す。と、隼人は更に渋面を浮かべて横顔だけ振り向いてきた。
「そっちが乗せろって言ったんだろ」
「そりゃあそうだけど」
「じゃあ乗れよ」
 言いながら、隼人は自転車に跨りハンドルを握った。

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