Fahrenheit -華氏- Ⅱ
何だか瑞野さんの様子が気になった。泣きそうな雰囲気もない、かと言って理不尽な物言いに怒りを露わにした様子もない。ただその表情は、瑠華がいつも貼り付けている無表情と言うものだった。
ここに来て親父が俺の存在にようやく気付いたのか、不機嫌のまま
「何だ」と聞いてきた。
俺は瑞野さんが立ち去って行った扉の向こう側を向き、親父には何も告げず代わりに綾子に
「わり、これ急ぎの案件だから」と書類を押し付け
「え!ちょっと啓っ……!」と綾子の戸惑った声を置き去りに、瑞野さんが向かったであろうエレベーターホールに走り出た。
瑞野さんはエレベーターにちょうど乗り込む所で
「瑞野さっ……!」
呼びかけるとほぼ同時彼女はエレベーターに乗り込み、俺の呼び声に振り返って顔を上げた。
その表情にはやはり悲しみや怒りは湧いていない―――ように見えた。
「神流部長、お疲れ様です。お先に失礼いたします」
きっちり頭を下げる姿もいつも通り完璧にきれいで、
しかし
頭を下げた瞬間彼女の顔からたった一粒の雫が零れ落ちたのは見逃さなかった。
瑞野さんはエレベーターの扉が閉まるまで顔を上げなかった。
俺は
エレベーターの扉が閉まる瞬間、何故かその扉をこじ開けて、その箱の中に飛び込んでいた。