Fahrenheit -華氏- Ⅱ
「東京まで出てくるのはこのクリニックに来るだけで今はほとんど田舎に引っ込んでいます。
でもまた裁判が長引いたら、きっと東京に出てこなきゃいけないかもしれませんが」
川田さんは小さく吐息をつき、そのタイミングで看護師と思われる女が非常階段の出入り口からこちらに入ってきた。川田さんの衝撃的過ぎる発言に動揺していたってのもある。定まらない視線の中、扉が閉まる瞬間、非常階段の様子がちらりと見えた。
「………あれ―――?」
俺が腰を上げると川田さんもそれにならい不思議そうに首を傾げる。
「どうかしました?」
「いや……あの手摺……壊れてなかった…ですよね?」
「手摺?」
川田さんは非常階段があったこと自体知らなかったようで、確かめる意味で彼が非常扉を外側に開いた。
「危ないですよ!ここ、昨日手摺の一部が壊れて危険ですので」
と、扉を開けようとしていた川田さんを止めに入る看護師は、さっきまさにその扉から出てきた女だった。中年の女でいかにもキツそうなベテランのように思えるその看護師は
「これ、見えないですか?怪我したくなかったら近づかないでくださいね」と、扉の内側に貼っていた紙を指さし。
でも、さっきそこから出てきたジャン??それにここって仮にもメンタルクリニックでしょ。そんな風に叱られたら患者が怖がるんじゃね?と色々突っ込みたかったが、突っ込みが許される雰囲気ではない。
「おーい、そっち持って」
「うーっす!」
と、扉の向こう側でいかにもいかつい感じの野太い男の声が聞こえてきて、業者が居たのか…と初めて気づいた。
業者が作業していると思われる非常階段は鉄製でむき出しになっていた。ちょうど裏の駐車場が見下ろせる場所で、前回来たときはそこから瑠華が案内する意味で、手を振っていた。この場所は四階建てのビルの三階部分だ。
もし……
もしもだよ?
手摺が壊れたのが、瑠華が手を振っているときだったら―――
考えて、急に自分の考えが恐ろしくなった。
足元から力が抜けていく感じがして、
ドン!
俺は派手に壁に背をついた。
「部長……?大丈夫ですか?」川田さんが心配そうに俺を覗き込んでくる。
何か……何か言わなきゃ…と思っても言葉が出てこない。俺の脳裏に過った映像。
三階の非常階段から落下する瑠華。