Fahrenheit -華氏- Ⅱ
二村の囁き声は、他の個室からの賑やかな話し声や、やや大きめの音の流行りのポップス音楽のBGMにかき消されそうな程小さなものだったが
俺の耳にはしっかり届いた。
それどころか、その言葉はまるで進行の早い癌のように俺の脳や心臓を刺激する―――呪いの言葉だ。
俺は目を開いた。
「断るのも承諾するのもあなたの自由ですよ?
ただ、断った場合これを公開する羽目になりますが?」
二村は稟議書をふらふらとさせ、
「これは神流部長にお返しします。これをどう“料理”するのかはあなた次第。
安心してください、このコピーも取ってあるんで」
二村はにっこり笑って、稟議書を差しだしてきた。
俺はその稟議書に視線を落とし、ヤツを睨みつけるだけの気力も失った。
ただ、焦点の合わないぼんやりとした紙面に走る文字の中、会長欄の空白だけははっきりと見えた。
「期限は11月1日。ぞろ目でいいでしょ♪
あ、そー言えば11月1日って言えば
辞令も下る日でしたねぇ」
わざとらしく二村は考え込むフリをして、
「この…
悪魔が…」
そう言うのが精一杯。
「やだなぁ部長。イマドキそんなこと言ったらパワハラとかで訴えられちゃいますよ~
コンプライアンスが重要視される中、あなたの方のクビが早く飛ぶかもしれませんね」
二村はどこまでも冗談めかして笑いながら、伝票を取りあげる。
「流石にここは俺の“奢り”です。俺が誘ったので」
俺はその手から伝票を乱暴に奪った。
「お前の喧嘩
俺が高く買ってやるよ」