はぐれ雲。
「新明くん」
その言葉に振り返った男が、博子の姿をとらえた。
一瞬、驚いたように身を強張らせる。
それを隠すかのように、男は煙草の煙を吐いた。
長くて細い煙…
「あの、新明くん…?」
「失礼ですが?」
煙たそうに目を細めながら男は訊ねた。
「葉山です。葉山博子です」
<覚えてるよね、新明くん>
胸の鼓動が早くなる。
やっぱりここにいたのね、そんな思いが身を貫く。
しかし、男は煙草をくわえ直すと平然と言った。
「人違いですよ」
そして背を向ける。
「ちょっと待って」
ヒールを履いた足がコツリと音を立てて、一歩前に出る。
<その手の甲のアザ、横顔、間違えるはずがないじゃない。あなたを見間違えるなんて、そんなことあり得ない。どうして嘘を言うの。あなたは新明亮二よ。ずっと会いたかった新明亮二よ>
しかし、それ以上博子は足が動かなかった。
「待って…」
その時、「リョージ」と甘ったるい声がしたかと思うと、博子の横を一人の女が追い抜いた。
「リョウジ、お待たせ」
短いスカートから白くて細い足がスラリと伸びているその女は、ひと目も憚らず男の腕に自分の腕をからませると、満面の笑みで彼の顔を見上げた。
同時に胸がズキンと痛む。
けれど博子はそれをただ見ているしかなかった。
その視線に気付いたのか、女は博子を不審そうに見ると、
「誰?」と男に尋ねた。
「人違いだ」
もう一度、彼女の胸が痛む。
男はぶっきらぼうにそう答えると、女の腰に手を回し引き寄せ親しげに歩き始めた。
人混みの中にその二人は消えていく。
気が付くと、頬に涙が伝っていた。
いろんな思いが交錯して、一体何の涙かはよくわからない。
ただ巻き戻された心が、当時のように新明亮二の背中を追いかけていることは確かだった。