AKANE
「チチルの香油の香り・・・、間違いない! あれはおれがエメに特別に作らせた唯一の品だ! そしてそれを身につけているのはアカネ唯一人・・・」
 確信へと変わったフェルデンの声に怯え、朱音は持てる力の全てを使って青年の身体を押し退けた。
 こんな姿へと変貌してしまった朱音の存在に気付かれる訳にはいかなかった。これ以上接触すると、いくらこの暗闇でも、朱音の正体を長くは隠し通せない。
「アカネ、なぜ逃げる?」
 驚きと戸惑いを含むフェルデンの優しい声に、朱音は胸が熱くなるのを覚えた。
(私の今の姿を知ってしまったら、貴方は朱音を嫌いになってしまうかもしれない・・・)
 クロウは憎しみの対象となってはいても、せめて記憶の中の朱音だけは愛されていたい、それが朱音に残された唯一つの願いだった。
「答えてくれ・・・、無事だったのか? それとも、今ここにいる君は魂か幻想か何かなのか・・・?」
 朱音はただ沈黙を守り続ける他無かった。その質問に、朱音自身がまだ答えを見つけ出していなかったからである。
(私は、一体何なんだろう・・・? フェルデンの言うように、魂だけの存在・・・? それとも、クロウが創り出したただの幻想・・・?)
 無意識に身体が震えていることに朱音は気付いていなかった。そしてそれは、浸水してきた海水の冷たさから引き起こされたものではなく、心理的なところからきた震えだった。
「アカネさんっ!」
 突如開け放たれた扉から多量の海水と雨が吹き込んできた。
 船外もほとんど室内と変わらぬ程の暗闇だったが、扉の前に立つ人物が誰なのか、朱音にはすぐにわかった。
(クリストフさん・・・!!)
 それは、どんなピンチにもいつも駆け付けてくれる、クリストフその人に他ならなかった。
 暗闇でもわかるクリストフは、頭の先から靴の先まで、これ以上にない程ぐっしょりと濡れていた。
「今、アカネと言ったか!? 」
 フェルデンは壁に手をつくと、よろめきながら扉から現れた新たな人物に問い掛けた。
「やはり、ここに居るのはアカネなんだな!? 」
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