狂想曲
「ちょっ、おい。泣くなよ。これじゃあ、俺が泣かせたみたいになるじゃねぇか。何か言えって」


この人を困らせたいわけではないのに。

それでも顔を覆ってしまった私を見たトオルさんは、大きく息を吐いた。



「反対側にまわってくれたら店の入り口あるから。コーヒー飲ませてやるよ」


トオルさんは、そのまま、そこにあった裏口なのだろうドアを開けた。

断れなかった。


私はぼうっとしたまま立ち上がった。


よろよろとしながら表通りまでどうにか辿り着くと、閉店の看板が掲げられた喫茶店のドアがあった。

私は重苦しい息を吐いて、ドアを引く。



私はここで何をやっているのだろうかと思いながら。



取り立てて特徴もないような、よくも悪くも、ごく普通の喫茶店。

店内のそこかしこに、幸福の木が置かれている。


カウンターに座らされた私の前に置かれたホットのブラックコーヒー。



「あの、さっきはすいませんでした」


かすれた声で私は言った。

カウンターを挟んだ向こうで、トオルさんは小首を傾げ、



「キョウに電話しねぇの?」

「………」

「あ、もしかしてあいつと喧嘩でもしたか? ったく、ダメな野郎だなぁ」


そうじゃないんです。

と、言おうと思ったけれど、でも何をどう説明すればいいかもわからなかったから、私は何も言えないまま。


沈黙だけが店内を支配し始めた、その時。



「トオル、そっちにいるのー?」


店の奥から声がした。

忘れるはずもない、あの人の声が。
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