ギミック・ラブ ~年下小悪魔の上手な飼い方~《完》
5 平穏なオフィスライフの、守り方
☆☆☆☆☆
出勤に頭痛が伴ったのは、
久しぶりかもしれない。
それも、偏頭痛でも二日酔い
でもない、特殊な方の頭痛で。
そうつまり――文字通り、
“頭が痛い”っていう状態。
(どんな顔してアイツに
会えばいいのよ……)
もはやあたしの中の彼の
ランクはガクンと下がり、
アイツ呼ばわり。
それでも、会わなくちゃ
いけない。
そして話もしないといけない。
なんせあたしは、始末書を
預かるのも、もっと言えば
あたしがするべきだった
戸締まりも忘れて、オフィスを
飛び出したんだから。
_「おはよー美咲!
昨日忙しかった~?」
入口前の廊下で奈々と
出くわした。
いっそ奈々に任せられたらな。
でも昨日の件に関しては、
あくまであたしが対応
上司になるから無理。
「忙しかったよ。
……色んな意味で」
「は? 何、色んな意味って?」
「………何でもない」
げんなりと肩を落としながら、
怪訝な顔をしてる奈々と
オフィスに入る。
オープンな広いスペースに、
チームごとに向かい合う
形で並ぶ机。
あたしの席とは隣の島になる
奈々チームの席に、アイツは
涼しい顔で座ってた。
_誰かが入ってきたからって
顔をあげることもない。
直接間近で挨拶されない
限り見向きもしないのは、
いつものことだ。
でも今日は、その態度が
やたら気に障る。
昨日ダテだと判明した眼鏡も、
今日はまた当然のように
かけて、いつもと同じ顔で。
昨日この場所で、あたしに
あんなことをしたくせに――…。
(……こ、こらっ。
思い出すんじゃない!)
自分で自分を叱咤して、
あたしは席に荷物を置くと
小さく深呼吸をした。
そして、キッとその憎らしい
姿を見据えて、歩み寄る。
「―――柚木クン」
_柚木クンが黙ってあたしを
見上げた。
その顔にあたしは精一杯の
落ち着いた声で、
「始末書、今渡してくれる?」
“昨日受け取らなくてゴメン”
くらい言ってもいいのかも
しれないけど、そもそもの
原因はコイツ。
だから前置きも何もなく、
それだけ言ってやった。
相手はどう出るかと正直
緊張してたけど、柚木クンは
普段となんの代わりもない、
感情の見えない無表情で、
「――はい。
よろしくお願いします」
と言って、机の脇に置いて
あった紙を、あたしに手渡す。
それっきりもうあたしを
見ようともせず、パソコン
画面に視線を戻した。
_(……そ、それだけ?)
夕べのことは、ここでは
完全になかったことにする
気なんだろうか。
あまりに拍子抜けする
反応に、ついその場で
ア然としてると、
「……まだ、他に何か?」
いかにもあたしがおかしい
ような言い方で尋ねてくる。
あたしはついカッとなって、
素直に気になってたことを
口にしてしまった。
「と、戸締まりはどうしたの?
ここの鍵の場所とか――…」
「――ああ。
よくわからなかったんで、
その防災センターとやらに
聞いてやりました。
重ねて怒られましたんで
謝っといて下さい」
_「そ、そう………」
たしかに鍵の保管場所や
施錠箇所を知ってるのは、
大竹課長か各チーフだけ。
毎日該当者の誰かが施錠して
防災センターに鍵を返却
することになってるけど、
そんなこと彼は知らないから、
どうしたか気になってたんだ。
でもどうやら、機転を
きかせて対応してくれたらしい。
その点にだけは、カケラ
ほどだけど、感謝するべきかも。
「……わかったわ」
若干イヤミっぽい言い方には
目をつむって、あたしは
それだけを答えた。
と、自分の席であたし達の
会話を聞いてたらしく、
奈々が話に割り込んでくる。
「なになに、どーした?
昨日、なんかあったの?」
_「なんでもな――…」
後ろめたさからとっさに
そう答えかけたけど、
考えてみればお客と揉めて
始末書案件になったことは
報告しとかないといけない。
なんせ、柚木クンの本当の
上司は奈々なんだから。
「……あっちで話すわ。
行こう、奈々」
オフィスに隣接した小さな
ミーティングルームを指で
示して、あたしは奈々の
方に近寄った。
柚木クンの顔は見ないように、
背中を向けて。
☆☆☆☆☆
_ ☆☆☆☆☆
「あの柚木クンがねー。
ホント意外。見てみたかったわ」
―――昼休み。
会社近くのカフェでランチを
食べながら、奈々が言う。
朝のうちに、始末書を書く
ことになった顛末だけを
簡潔に話した。
もちろんその後起こった
ことは恥ずかしくて
言えないから、彼がそれを
“客がウザかったから”と
話したことは秘密だけど。
当然のごとく、奈々は
信じられないって顔で驚いて、
今もまたこうして繰り返してる。
……昨日の柚木クンさえ
知らなければ、至極頷ける
反応だ。
_だけど、あたしは知って
しまった。
あの眼鏡の奥に潜んでた、
彼の本当の顔を。
(奈々は騙されてるのよ。
奈々だけじゃない――
会社の人間、みんな)
アイツが本当はとんでもない
S系エロ男なんだって、
バラせるならバラしてやりたい。
だけどそれはイコール、
夕べあったことをみんなに
打ち明けること。
年下の部下にいいように
翻弄されたなんて、とても
じゃないけど言えない……。
―――ものすごく悔しい
けど、あたしは口をつぐむ
しかなかった。
今も返す言葉の出なかった
あたしを、奈々は不思議
そうに見て、
「どうしたの?
なんか今日、全然元気ない
じゃん。その始末書の件で
落ち込んでんの?」
_「え? そ、そんなこと
ないわよ。
っていうかあたしが落ち
込むようなことじゃないじゃん」
慌ててごまかして、ストローで
アイスティをゴクリと飲む。
“元気ない”だなんて――
何だかあたしが昨日のことで
調子を崩してるみたいなのが、
妙にくやしかった。
(――もう忘れよう。
柚木クンだって、何事も
なかったように素知らぬ
顔してたじゃない)
彼がなぜ本性を隠してるのかも、
夕べあたしにその片鱗を
覗かせたのかも、あたし
には知りようもない。
だけど、向こうがそれを
なかったことにしようって
いうなら、それでいい。
ううん、むしろその方が
ありがたい。
_チームは違えど、これからも
同じオフィスで働く仕事仲間。
おまけに一応上司と部下で――
本当はあんなこと、絶対
あっちゃいけなかった。
それにあたしには、拓巳
っていう彼氏だっている。
今まで拓巳に後ろめたい
ことなんて何一つなかった
のに、アイツのせいで初めて
拓巳に隠さないといけない
事実ができてしまった。
――どちらの面から考えても、
なかったことにした方がいい。
だからあたしも、全部
忘れてしまった方がいいんだ。
(――うん、そうよ。
もう、思い出さない)
“夕べのことは、忘れる”
_改めて胸の内で繰り返して、
あたしは気分を変えるように
明るい声を出した。
「それよりさ。今日もまた、
飲みに行こうよ」
「え、今日?
んー…給料日前だし、
安いとこならいいけど」
「いいよ、どこでも。
んじゃ決定ね」
なかば強引に押し切って
奈々にウンと言わせると、
止まってた食事を再開する。
食べ終わってしばらく雑談
して、それから店を出た。
会社のあるビルのエントランス
まで来たところで、バッグの
中で携帯が鳴り、あたしは
立ち止まる。
「あ……拓巳だ」
「ん? メール?」
_「ううん、電話」
昼休みだとわかってるから
かけてきたみたいだ。
奈々が目線でOKをくれたので、
あたしは電話に出た。
「もしもし?」
『あ、もしもし俺。
大丈夫? 休憩だった?』
「うん。今会社に戻ろうと
してたとこ。
どうしたの?」
『ああ。なんかさ、今日
早く終われそうなんだ。
それで、この間のお詫びに
食事でもどうかと思って』
「え? 今日……?」
なんてバッドタイミング。
ついさっき、奈々と飲みに
行くことにしたばかりだ。
「えーと、ゴメン、今日は……」
『ん? なんだ、ムリか?』
_「うん、ちょっと友達と
約束が……」
とそこまで口にした時、
ツンツンと左の腕がつつかれる。
見ると、奈々がニヤニヤ
した笑いを浮かべて、
小声で囁いてきた。
「あたしはいいわよ。
女友達とのビンボー飲み会
より、彼氏でしょ」
「え、でも……」
あたしの方が誘ったのに。
「いいってば。拓巳クンと
仲良くやんなさい。
あたし、先に行ってるね」
ポンポンとあたしの肩を
叩き、奈々はエレベーター
ホールへと歩き出す。
気をきかせてくれたらしい。
(うー、ゴメンね、奈々)
『……美咲? どうしたんだよ』
_「あ、ゴメン。
友達と飲み行こうかって
話もあったんだけど、
なくなった。だから大丈夫よ」
ここは素直に奈々の好意に
甘えて、あたしは拓巳に
そう告げた。
……実際、会えるなら
拓巳に一番会いたい。
そうすればきっと、どうでも
いいこととか、スパッと
忘れられる。
『そっか。
それじゃあまた、俺が
そっち向かっとくよ。
7時半くらいでいい?』
「うん、いいよ。
あたしも終わったら拓巳に
電話する」
『ああ。んじゃ夜にな」
通話が切れたことを確認
してから、携帯を下ろし、
折りたたんでバッグにしまう。
_まだ時間に余裕はあるけど、
少し急ぎ足で歩き出そうと
した、その時だった。
「へぇ。彼氏サン、拓巳
っていうんですか」
突如、真後ろから聞こえて
きた声。
その声を耳にした途端、
あたしはギクリと体を硬直
させる。
(嘘……なんで……?)
あの時間はなかったことに
するんじゃなかったの?
そう思ってたのに――
どうして――…。
「柚木クン……」
きしむ体を何とか動かして
振り返ると、柚木クンは
レンズの奥の瞳を少し細めて、
ジッとあたしを見ていた。
「デートの約束ですか?」
_平淡な声。
でもその声に微かにからかう
ような色があるのを、
あたしは敏感に察する。
―――わかる。
敬語を使ってるけど、これは
いつもの“柚木クン”じゃない。
「……あなたに関係ないわ」
どうしてまた、声をかけて
くるのか。
わからないけど、とにかく
関わらない方がいい。
振り切って立ち去ろうと
したあたしを、だけど柚木
クンは、容赦なく引き止めた。
……ナイフのような、言葉で。
「意味あるんですか?
自分を満たしてくれない
彼氏なんて」
「……………っ!?」
本当になんてヤツ。
こんな所で、夕べと全く
同じ言葉を重ねてくるなんて。
_「……やめて!」
聞きたくもない。
もちろん、答えるつもり
だってない。
「無益だなぁ。
どうしてそんな無益な
関係にしがみつくのか、
オレにはサッパリだ。
里中さんって案外、
子供だったんですね」
「なっ――…!?」
はらわたが煮え繰り返るって、
こういうことを言うんだろうか。
怒りで瞬時に頬が熱くなる。
どうして彼に、馬鹿にした
ようにこんなことを言われ
なきゃならないの。
「何も知らないくせに、
勝手なこと言わないでよ……!」
低く唸りのように吐き
捨てると、柚木クンはごく
小さな声でフッと笑った。
_そして、わずかにあたしの
耳に顔を寄せ、悪魔の
ような囁き声で、
「何も、じゃないですよ。
少なくとも、あなたがその
拓巳って彼氏に満足して
ないことは知ってる」
「………!? 決めつけないで!
そんなことはないわ!」
「あるでしょう?
でなきゃ、どうして昨日
オレに感じたりしたのかな」
「かっ――…」
―――感じてなんか、ない。
そんなこと――絶対に――…。
「………あれ?
反論しないんですか?」
白々しい口調に、嘲りの
感情が滲み出てる。
………悔しい。
こんな屈辱を感じたのは、
きっと初めてだ。
_「マンネリにウンザリしてても、
抜け出そうとしない。
里中さんは怖がりなんですね」
「………は? 何言って――…」
「そうでしょ?
だからそんなの、オレに
してみれば子供だって
言ってるんです。
それに馬鹿げてる。
好きでもない相手と、
無益なセックスを繰り返す
なんてね」
「―――――っ!!」
――もう、我慢の限界だった。
あたしはキッと柚木クンを
睨みつけると、右手で彼の
頬を思い切り打った。
パシーンという高い音が、
エントランスの天井に
反響して響いてる。
周囲の視線が集まるのにも
気づいたけど――もうそんな
ものは、かまってられなかった。
_「あなたに、偉そうに
あたしのこと言う権利
なんてあるの……!?」
掌に広がる痺れをぼんやりと
感じながら、怒りで震える
声を叩きつけると。
……柚木クンは打たれた頬を
軽く押さえながらあたしを
見て、また、ガラスの
向こうの目をスッと細める。
まるで、何か眩しいもの
でも見つめるように。
そして一拍の沈黙の後、
抑揚のない低い声でこう言った。
「――権利なんて知らないよ。
けど、忘れてないよね?
……夕べのお仕置きは、
まだ、終わってないから」
_「な―――…!?」
呆然とするあたしを、
それ以上見ることもなく。
柚木クンはスッとあたしを
追い越すと、何事もなかった
ように、エレベーターへと
歩いていった……。
☆☆☆☆☆
_
出勤に頭痛が伴ったのは、
久しぶりかもしれない。
それも、偏頭痛でも二日酔い
でもない、特殊な方の頭痛で。
そうつまり――文字通り、
“頭が痛い”っていう状態。
(どんな顔してアイツに
会えばいいのよ……)
もはやあたしの中の彼の
ランクはガクンと下がり、
アイツ呼ばわり。
それでも、会わなくちゃ
いけない。
そして話もしないといけない。
なんせあたしは、始末書を
預かるのも、もっと言えば
あたしがするべきだった
戸締まりも忘れて、オフィスを
飛び出したんだから。
_「おはよー美咲!
昨日忙しかった~?」
入口前の廊下で奈々と
出くわした。
いっそ奈々に任せられたらな。
でも昨日の件に関しては、
あくまであたしが対応
上司になるから無理。
「忙しかったよ。
……色んな意味で」
「は? 何、色んな意味って?」
「………何でもない」
げんなりと肩を落としながら、
怪訝な顔をしてる奈々と
オフィスに入る。
オープンな広いスペースに、
チームごとに向かい合う
形で並ぶ机。
あたしの席とは隣の島になる
奈々チームの席に、アイツは
涼しい顔で座ってた。
_誰かが入ってきたからって
顔をあげることもない。
直接間近で挨拶されない
限り見向きもしないのは、
いつものことだ。
でも今日は、その態度が
やたら気に障る。
昨日ダテだと判明した眼鏡も、
今日はまた当然のように
かけて、いつもと同じ顔で。
昨日この場所で、あたしに
あんなことをしたくせに――…。
(……こ、こらっ。
思い出すんじゃない!)
自分で自分を叱咤して、
あたしは席に荷物を置くと
小さく深呼吸をした。
そして、キッとその憎らしい
姿を見据えて、歩み寄る。
「―――柚木クン」
_柚木クンが黙ってあたしを
見上げた。
その顔にあたしは精一杯の
落ち着いた声で、
「始末書、今渡してくれる?」
“昨日受け取らなくてゴメン”
くらい言ってもいいのかも
しれないけど、そもそもの
原因はコイツ。
だから前置きも何もなく、
それだけ言ってやった。
相手はどう出るかと正直
緊張してたけど、柚木クンは
普段となんの代わりもない、
感情の見えない無表情で、
「――はい。
よろしくお願いします」
と言って、机の脇に置いて
あった紙を、あたしに手渡す。
それっきりもうあたしを
見ようともせず、パソコン
画面に視線を戻した。
_(……そ、それだけ?)
夕べのことは、ここでは
完全になかったことにする
気なんだろうか。
あまりに拍子抜けする
反応に、ついその場で
ア然としてると、
「……まだ、他に何か?」
いかにもあたしがおかしい
ような言い方で尋ねてくる。
あたしはついカッとなって、
素直に気になってたことを
口にしてしまった。
「と、戸締まりはどうしたの?
ここの鍵の場所とか――…」
「――ああ。
よくわからなかったんで、
その防災センターとやらに
聞いてやりました。
重ねて怒られましたんで
謝っといて下さい」
_「そ、そう………」
たしかに鍵の保管場所や
施錠箇所を知ってるのは、
大竹課長か各チーフだけ。
毎日該当者の誰かが施錠して
防災センターに鍵を返却
することになってるけど、
そんなこと彼は知らないから、
どうしたか気になってたんだ。
でもどうやら、機転を
きかせて対応してくれたらしい。
その点にだけは、カケラ
ほどだけど、感謝するべきかも。
「……わかったわ」
若干イヤミっぽい言い方には
目をつむって、あたしは
それだけを答えた。
と、自分の席であたし達の
会話を聞いてたらしく、
奈々が話に割り込んでくる。
「なになに、どーした?
昨日、なんかあったの?」
_「なんでもな――…」
後ろめたさからとっさに
そう答えかけたけど、
考えてみればお客と揉めて
始末書案件になったことは
報告しとかないといけない。
なんせ、柚木クンの本当の
上司は奈々なんだから。
「……あっちで話すわ。
行こう、奈々」
オフィスに隣接した小さな
ミーティングルームを指で
示して、あたしは奈々の
方に近寄った。
柚木クンの顔は見ないように、
背中を向けて。
☆☆☆☆☆
_ ☆☆☆☆☆
「あの柚木クンがねー。
ホント意外。見てみたかったわ」
―――昼休み。
会社近くのカフェでランチを
食べながら、奈々が言う。
朝のうちに、始末書を書く
ことになった顛末だけを
簡潔に話した。
もちろんその後起こった
ことは恥ずかしくて
言えないから、彼がそれを
“客がウザかったから”と
話したことは秘密だけど。
当然のごとく、奈々は
信じられないって顔で驚いて、
今もまたこうして繰り返してる。
……昨日の柚木クンさえ
知らなければ、至極頷ける
反応だ。
_だけど、あたしは知って
しまった。
あの眼鏡の奥に潜んでた、
彼の本当の顔を。
(奈々は騙されてるのよ。
奈々だけじゃない――
会社の人間、みんな)
アイツが本当はとんでもない
S系エロ男なんだって、
バラせるならバラしてやりたい。
だけどそれはイコール、
夕べあったことをみんなに
打ち明けること。
年下の部下にいいように
翻弄されたなんて、とても
じゃないけど言えない……。
―――ものすごく悔しい
けど、あたしは口をつぐむ
しかなかった。
今も返す言葉の出なかった
あたしを、奈々は不思議
そうに見て、
「どうしたの?
なんか今日、全然元気ない
じゃん。その始末書の件で
落ち込んでんの?」
_「え? そ、そんなこと
ないわよ。
っていうかあたしが落ち
込むようなことじゃないじゃん」
慌ててごまかして、ストローで
アイスティをゴクリと飲む。
“元気ない”だなんて――
何だかあたしが昨日のことで
調子を崩してるみたいなのが、
妙にくやしかった。
(――もう忘れよう。
柚木クンだって、何事も
なかったように素知らぬ
顔してたじゃない)
彼がなぜ本性を隠してるのかも、
夕べあたしにその片鱗を
覗かせたのかも、あたし
には知りようもない。
だけど、向こうがそれを
なかったことにしようって
いうなら、それでいい。
ううん、むしろその方が
ありがたい。
_チームは違えど、これからも
同じオフィスで働く仕事仲間。
おまけに一応上司と部下で――
本当はあんなこと、絶対
あっちゃいけなかった。
それにあたしには、拓巳
っていう彼氏だっている。
今まで拓巳に後ろめたい
ことなんて何一つなかった
のに、アイツのせいで初めて
拓巳に隠さないといけない
事実ができてしまった。
――どちらの面から考えても、
なかったことにした方がいい。
だからあたしも、全部
忘れてしまった方がいいんだ。
(――うん、そうよ。
もう、思い出さない)
“夕べのことは、忘れる”
_改めて胸の内で繰り返して、
あたしは気分を変えるように
明るい声を出した。
「それよりさ。今日もまた、
飲みに行こうよ」
「え、今日?
んー…給料日前だし、
安いとこならいいけど」
「いいよ、どこでも。
んじゃ決定ね」
なかば強引に押し切って
奈々にウンと言わせると、
止まってた食事を再開する。
食べ終わってしばらく雑談
して、それから店を出た。
会社のあるビルのエントランス
まで来たところで、バッグの
中で携帯が鳴り、あたしは
立ち止まる。
「あ……拓巳だ」
「ん? メール?」
_「ううん、電話」
昼休みだとわかってるから
かけてきたみたいだ。
奈々が目線でOKをくれたので、
あたしは電話に出た。
「もしもし?」
『あ、もしもし俺。
大丈夫? 休憩だった?』
「うん。今会社に戻ろうと
してたとこ。
どうしたの?」
『ああ。なんかさ、今日
早く終われそうなんだ。
それで、この間のお詫びに
食事でもどうかと思って』
「え? 今日……?」
なんてバッドタイミング。
ついさっき、奈々と飲みに
行くことにしたばかりだ。
「えーと、ゴメン、今日は……」
『ん? なんだ、ムリか?』
_「うん、ちょっと友達と
約束が……」
とそこまで口にした時、
ツンツンと左の腕がつつかれる。
見ると、奈々がニヤニヤ
した笑いを浮かべて、
小声で囁いてきた。
「あたしはいいわよ。
女友達とのビンボー飲み会
より、彼氏でしょ」
「え、でも……」
あたしの方が誘ったのに。
「いいってば。拓巳クンと
仲良くやんなさい。
あたし、先に行ってるね」
ポンポンとあたしの肩を
叩き、奈々はエレベーター
ホールへと歩き出す。
気をきかせてくれたらしい。
(うー、ゴメンね、奈々)
『……美咲? どうしたんだよ』
_「あ、ゴメン。
友達と飲み行こうかって
話もあったんだけど、
なくなった。だから大丈夫よ」
ここは素直に奈々の好意に
甘えて、あたしは拓巳に
そう告げた。
……実際、会えるなら
拓巳に一番会いたい。
そうすればきっと、どうでも
いいこととか、スパッと
忘れられる。
『そっか。
それじゃあまた、俺が
そっち向かっとくよ。
7時半くらいでいい?』
「うん、いいよ。
あたしも終わったら拓巳に
電話する」
『ああ。んじゃ夜にな」
通話が切れたことを確認
してから、携帯を下ろし、
折りたたんでバッグにしまう。
_まだ時間に余裕はあるけど、
少し急ぎ足で歩き出そうと
した、その時だった。
「へぇ。彼氏サン、拓巳
っていうんですか」
突如、真後ろから聞こえて
きた声。
その声を耳にした途端、
あたしはギクリと体を硬直
させる。
(嘘……なんで……?)
あの時間はなかったことに
するんじゃなかったの?
そう思ってたのに――
どうして――…。
「柚木クン……」
きしむ体を何とか動かして
振り返ると、柚木クンは
レンズの奥の瞳を少し細めて、
ジッとあたしを見ていた。
「デートの約束ですか?」
_平淡な声。
でもその声に微かにからかう
ような色があるのを、
あたしは敏感に察する。
―――わかる。
敬語を使ってるけど、これは
いつもの“柚木クン”じゃない。
「……あなたに関係ないわ」
どうしてまた、声をかけて
くるのか。
わからないけど、とにかく
関わらない方がいい。
振り切って立ち去ろうと
したあたしを、だけど柚木
クンは、容赦なく引き止めた。
……ナイフのような、言葉で。
「意味あるんですか?
自分を満たしてくれない
彼氏なんて」
「……………っ!?」
本当になんてヤツ。
こんな所で、夕べと全く
同じ言葉を重ねてくるなんて。
_「……やめて!」
聞きたくもない。
もちろん、答えるつもり
だってない。
「無益だなぁ。
どうしてそんな無益な
関係にしがみつくのか、
オレにはサッパリだ。
里中さんって案外、
子供だったんですね」
「なっ――…!?」
はらわたが煮え繰り返るって、
こういうことを言うんだろうか。
怒りで瞬時に頬が熱くなる。
どうして彼に、馬鹿にした
ようにこんなことを言われ
なきゃならないの。
「何も知らないくせに、
勝手なこと言わないでよ……!」
低く唸りのように吐き
捨てると、柚木クンはごく
小さな声でフッと笑った。
_そして、わずかにあたしの
耳に顔を寄せ、悪魔の
ような囁き声で、
「何も、じゃないですよ。
少なくとも、あなたがその
拓巳って彼氏に満足して
ないことは知ってる」
「………!? 決めつけないで!
そんなことはないわ!」
「あるでしょう?
でなきゃ、どうして昨日
オレに感じたりしたのかな」
「かっ――…」
―――感じてなんか、ない。
そんなこと――絶対に――…。
「………あれ?
反論しないんですか?」
白々しい口調に、嘲りの
感情が滲み出てる。
………悔しい。
こんな屈辱を感じたのは、
きっと初めてだ。
_「マンネリにウンザリしてても、
抜け出そうとしない。
里中さんは怖がりなんですね」
「………は? 何言って――…」
「そうでしょ?
だからそんなの、オレに
してみれば子供だって
言ってるんです。
それに馬鹿げてる。
好きでもない相手と、
無益なセックスを繰り返す
なんてね」
「―――――っ!!」
――もう、我慢の限界だった。
あたしはキッと柚木クンを
睨みつけると、右手で彼の
頬を思い切り打った。
パシーンという高い音が、
エントランスの天井に
反響して響いてる。
周囲の視線が集まるのにも
気づいたけど――もうそんな
ものは、かまってられなかった。
_「あなたに、偉そうに
あたしのこと言う権利
なんてあるの……!?」
掌に広がる痺れをぼんやりと
感じながら、怒りで震える
声を叩きつけると。
……柚木クンは打たれた頬を
軽く押さえながらあたしを
見て、また、ガラスの
向こうの目をスッと細める。
まるで、何か眩しいもの
でも見つめるように。
そして一拍の沈黙の後、
抑揚のない低い声でこう言った。
「――権利なんて知らないよ。
けど、忘れてないよね?
……夕べのお仕置きは、
まだ、終わってないから」
_「な―――…!?」
呆然とするあたしを、
それ以上見ることもなく。
柚木クンはスッとあたしを
追い越すと、何事もなかった
ように、エレベーターへと
歩いていった……。
☆☆☆☆☆
_