HYPNOTIC POISON ~催眠効果のある毒~
「その絵は未完成だ」
トン
ふいに背後で声が聞こえて、あたしの後ろから手を伸ばして久米がデスクの上に手をつく。
びっくりした。
だって足音も何もしなかったから。
すぐ背後に迫った久米。
それはあたしの知ってる中学二年のときの美術バカの気配じゃなかった。
前は…あたしと身長が並ぶぐらいだったのに。いつの間にかあたしをすっぽり包めるほど背が高くなったし、筋肉も発達している。
「上手だね。あんた才能あるじゃん?」
後ろを振り向かずに言うと、久米はあたしの背後からトレーを持った手を伸ばしてそのトレーを絵の上に置いた。
まるで絵を隠すように。
「その絵は死体だよ。
女の人の死体。気味悪いだろう?」
ぴたりと詰めた距離。
すぐ背後であたしの耳元に口を寄せて久米がそっと囁いた。
その声はあたしの知ってる“美術バカ”の声よりもだいぶ低くて、水月や保健医みたいな…どこか大人の男の色気を含んでいた。
「似たようなの、どこかで見たことある」
「ハムレットの“オフィーリア”だ。君も知ってるだろう?」
そう言われて、「ああ」とだけ頷いた。
ハムレットの婚約者で、父を殺されて狂い、自ら泉に身を投じて死んでしまう悲しい娘。
久米はあたしの背後から両手を回してテーブルに手をつく。
あたしは逃げるつもりはないけれど、その仕草はまるで逃がさないように取り囲んでいるように思えた。
「中国の古い思想で、溺死体は女は仰向け、男はうつ伏せになって浮かび上がってくるそうだ。
面白いよね」
久米は描きかけの絵からあたしの興味を逸らそうとしたに違いない。
「へぇ…興味深い話だね。
中国の思想がシルクロードを渡ってヨーロッパに伝承したってわけ?
だからオフィーリアも仰向けなの?」
「なるほど、そうゆう考え方もできるか」
久米は面白そうに低く笑って、トレーの下から紙を抜き取った。
それを背後に隠すようにして
「死体論はやめて、お茶でもしない?
高校生らしくさ」
とさっきの意味深な態度から一転、にっこり笑ってあたしから離れる。