もしも願いが二つ叶うなら…
 翌日の夜練習。
 シザーの開閉音がフロアに静かに響き渡る。
 ウィッグに向かい、カット練習をしているチカとミサキの手は、止まることなく動き続けていた。

「ねえ、ミサキ。“ひらがな”って、なんで“あ”から始まると思う?」
「……は? なにそれ、クイズ?」
「ううん。クイズっていうより……問いかけって感じ」
「誰に聞かれたの?」
「ケン君に……」
「え、もうそんな仲になったの!?」

 ミサキの声が思わず大きくなり、フロアに響く。
 慌てたチカは後ろを気にして、小声で囁いた。

「ちょっと……声大きいってば。タカユキいるんだから……」

 その名を出すと、どこか胸がちくりと痛む。
 チカは視線をそらしながら言葉を続けた。

「昨日、ユウカちゃんが退院する病院で、偶然ケン君に会って……そのときに聞かれたの」
「ふぅん……」

 すべてを察したように、ミサキは小さく何度か頷く。

「ケン君からの問いかけなら、きっと意味があると思うよ。でもね、たぶん正解が知りたいんじゃなくて、チカがどう思うかを知りたいんじゃないかな」

 その言葉に、チカの手がふと止まった。
 動かし続けていたハサミをそっと下ろし、ぽつりと呟く。

「……私の思いか」

 練習を終えたあと、ウィッグを片付けながら、チカは休憩室へと向かった。

「お疲れ様です!」
「おう、お疲れ」

 アシスタントの練習ノートに目を通していたジュンに、思い切って聞いてみる。

「ジュンさん、“ひらがな”って、なんで“あ”から始まると思いますか?」
「……なんだ急に?」

 走らせていたペンが止まり、ジュンの視線がチカに向けられる。

「わかんないけど……もしチカが“ひらがな”を作るとしたら、何を思って並べるかを考えてみれば?」

 ジュンの言葉に、ふと視線が揺れる。
 もしも私が“ひらがな”を作るなら――。
 最初は「あ」。その次は「い」。
 そう、最初に並ぶのは「あい」。
 “愛”――。
「あ」から始まって「い」が続く。
 “すべての言葉のはじまりが、愛からだったら――”
 その瞬間、電気が走るように、答えが心に届いた。

「ジュンさん!」
「ん?」
「ケン君の連絡先、教えてください!」
「お、おう? どうした急に?」
「“これがわかったらジュンから連絡先をもらっていい”って、ケン君が言ってたんです!」
「なるほどね……そういうことか」

 納得したように頷くジュンが、ポケットからケータイを取り出す。
 数秒後、チカのケータイにメッセージが届いた。
 画面に表示された、その名前――。
 “ケン”
 ついに、その連絡先が手に入った。
 胸の奥で、何かが音を立てて動き出す。
 それは、物語の始まり。
 “あ”という名の、新しい一歩。

「それで答えは何なの?」

 いつの間にか隣に座っていたミサキが、待ちくたびれたように呟いた。

「これは“答え”っていうより……。ミサキが言ってた通り、私が“どう思うか”なんだと思う。だから、自分の感じたことが正解なんじゃないかなって」
「何それ、うまくまとめたつもり?」

 ミサキはいじけたように笑い、そのやり取りを見ていたジュンも、どこか笑いを堪えているように見えた。
 夜練習を終えた帰り道。
 チカはケータイを見つめたまま、夜道を歩く。

 |《質問の答えですが、何となくわかった気がしたので、ジュンさんから連絡先を聞いてしまいました! きっと“ひらがな”を作った人は、後世のために“生きる意味”を、言葉という形で残したかったのかなと思いました》

 慎重に言葉を選びながらメールを打ち終え、最後にもう一度内容を確認してから、送信ボタンを押した。

「日曜日はメイクのチェックか……」

 星のない空を見上げながら、ミサキが大きくあくびを漏らす。

「メイクって、本当難しいよね」
「私もそろそろ、カットだけじゃなくてメイクの練習もしなきゃって思ってたとこ」
「じゃあ明日の朝、メイク練やろっか!」

 チカはミサキの肩をポンッと叩き、笑顔で返した。
 いつもの分かれ道でミサキと手を振って別れ、家路を急ぐ。
 玄関を開けるなり、すぐにケータイを確認したが、まだケンからの返信はなかった。
 そのまま夕食の準備に取りかかるも、箸を持つ手が何度もケータイの画面へと向かう。
 “きっと忙しいだけ。きっとそう――”
 そう自分に言い聞かせ、シャワーを浴びにバスルームへと向かった。
 鼻歌交じりにお湯に打たれていると、ふとシャワーの音に混じって、微かな着信音が耳に届いた。

「……えっ!?」

 慌てて飛び出し、濡れたままの体にバスタオルを巻きつけ部屋へと駆け戻る。
 画面を開くと――。

 |《ジェルネイルやりたいんだけど、店長に怒られるかな?》

 それは、ミサキからのメッセージだった。

「……なんだ、もう……」

 脱力しながらも、少しだけ笑ってしまう。
 そういえば、ケン君も左手の小指だけ、ジェルネイルをしていた。
 男性では珍しいけど、あれには何か意味があるのだろうか?
 バスルームに戻りながら、ふとその爪の光を思い出す。
 シャワーを終え、再びケータイを確認したが――やはり返信はない。
 ふてくされたまま、ドレッサーに向かい、化粧水を手に取る。
 いつもは時間をかけて行うスキンケアも、今夜ばかりは心ここにあらずで、手抜きになってしまった。
 髪を乾かしながらも、何度も視線がテーブルの上のケータイへと戻る。
 やがて、気を紛らわせるように休日にまとめてやるはずの家事に取りかかった。
 洗濯物を畳みながらも、ケータイに目をやる。
 食器を洗いながらも、ケータイに耳を傾ける――。
 すべてが終わったころには、部屋の明かりだけがぽつりと灯り、チカは静かにベッドへと入った。
 暗闇の中、ケータイの画面を見つめる。
 返信は――ない。
 目をこすりながらも、画面から目が離せない。
 深夜、待ちくたびれたまま、ケータイを胸に抱き締めるようにして、眠りに落ちた。
 
 翌朝。
 ケータイの着信音でチカは飛び起きた。
 寝ぼけたまま手探りで画面を開くと――

 |《ケン君からメール来た?》

 またミサキからのメッセージだった。

 |《まだ……》

 そう返信してからケータイを閉じ、急いで身支度に取りかかった。
 出勤後も、営業開始までの間、ケータイを開いては閉じるの繰り返し。
 だが、朝礼の時間となり、しぶしぶケータイをバッグにしまった。
 ――そして、19時を回る頃。
 客足も落ち着き始め、チカはようやく休憩に入った。
 昼に買っておいたカップラーメンにお湯を注ぎながら、左手にはケータイを握る。
 画面を開くと――「メール受信」の文字。
 祈るような気持ちで指先を滑らせ、メッセージを開いた。

 |《俺の答えに少し近い》

 ――ケンからの返信だった。
 思わず口元が緩み、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 チカはすぐに返信を書き始めた。

 |《ケン君の答えは何だったんですか?》

 ほどなくして再び、ケータイが鳴る。

 |《“ひらがな”って、“あい(愛)”から始まって、“をん(恩)”で終わる。人は愛を授かって生まれて、恩を返して生涯を終える。そんな生き方みたいなことを教えてくれるものなのかなって思ってる》

 画面を見つめながら、チカの胸に何かがすとんと落ちる。

 |《すごく素敵な考え方ですね!》

 そう返信したあと、少し迷いながらも、もう1通メッセージを送った。

 |《実はお願いがありまして、今度の日曜日にメイクチェックがあるので、その前にメイクを教えてもらえませんか?》

 数分後――

 |《いいけど、今週は明日の深夜0時以降しか空いてない》

 少し遅いけれど、それでも構わない。
 むしろ、チカにとっては願ってもない機会だった。

 |《私も大丈夫です! お仕事でお疲れのところすみません。うちの店に待ち合わせでもいいですか?》
 |《わかった》

 ――その返事が届いた瞬間。
 夢中になりすぎて、すっかりのびきってしまったカップラーメンを大慌てで啜り、笑顔でフロアへと戻っていった。
 
 営業が終了し、チカが休憩室でケータイを眺めていると、陽気な足取りでミサキが入ってくる。

「聞いて! 店長に聞いたら、長さ出さなければジェルネイルOKだって!」
「良かったね!」

 嬉しそうなミサキの笑顔を見つめながら、チカの心にはある記憶が蘇る。
 ――ジェルネイル。
 ケンの左手小指に、そっと添えられていた、あのネイル。
 そのとき、再び休憩室のドアが開いた。

「ミサキ、店長が呼んでるぞ」
「はーい、すぐ行きます!」

 ジュンの呼び声に、ミサキは弾む声で返事をし、そのまま楽しそうにフロアへと戻っていった。

「あいつ、機嫌いいな……」

 ジュンは疲れをほぐすように顔をこすり、ポケットからタバコを取り出すと火を点けた。

「ジェルネイルやるみたいで」
「……女性って、ほんとそういうの好きだよな」

 ぽつりと呟いたジュンの言葉に、チカは意を決したように切り出した。

「そういえば、ケン君もやってますよね?」
「……そうだっけ?」

 裏返った声。
 思わず出たその反応に、チカは確信する。

「ほんとは知ってますよね?」

 じっと見つめるチカの視線に、ジュンは観念したように肩を落とし、静かに口を開いた。

「……あれは、ケンにとって“自分への戒め”なんだ」
 
 
* * *
 
 今から5年ほど前――
 俺が美容師として働き始めてまだ間もない頃のことだ。
 あの日は、仕事終わりにケンと二人で飲みに行った。

「美容師、どう?」
「大変だよ。まだシャンプーしか合格してないしさ」

 そう言いながらケンに視線を向けた時、ふと目に留まった。
 左手の小指に、何かが塗られていたんだ。

「左手の爪のそれ……何?」
「これか。病院の子が塗ってくれたんだ」

 爪には不器用に塗られたマニキュア。
 はみ出した色が指先の皮膚にまでこびりつき、乾いて固まっていた。

「……下手くそだろ!」

 そんな言葉とは裏腹に、ケンの顔は柔らかく、どこか誇らしげだった。
 まるでプレゼントをもらった子供のように――。
 あんな表情のケンを見るのは初めてだった。
 それが、ケンにとってどれほど特別なものだったのか。
 あの時の表情を見れば、言葉にしなくてもわかった。
 ――あれは、アヤカからのプレゼントだった。
 その一本の爪には、アヤカという少女がくれた“思い出”が宿っていた。
 無邪気な優しさ。小さな勇気。
 それをケンは、今でもずっと指先に封じ込めている。
 許されることのない“事実”――。
 あの出来事を抱えながら、それでもアヤカの優しさを忘れたくなかったんだろう。
 だからこそ、忌まわしい記憶と優しい記憶をひとつに重ねて、左手の小指に刻んだ。
 それはケンにとって、贖罪であり、祈りでもあったのかもな。
 だが今となっては、それはただ、己を戒めるためだけに残された、深い烙印となってしまったのかもしれない。
 
* * *
 
 
 何かしらの意味があるとは思っていた。
 けれど、そんな深い想いが込められていたなんて、夢にも思わなかった。
 忘れられない思い出。
 忘れてはいけない思い出。
 それがかけがえのない記憶ならば、なおさらだ。
 人は亡くなってしまえば、他者の記憶の中でしか生き続けることができない。
 だからこそ――悲しみだけを宿したままの思い出であっていいはずがない。
 私が知っているあなたは、強くて、優しくて、どこまでも真っ直ぐな人だ。
 たとえ今、その思い出が自分を責めるための傷痕に変わってしまっていたとしても……
 いつかきっと、取り戻せる。
 あの日の微笑みも、温もりも。
 それが、あなたの中で――もう一度「大切な記憶」と呼べる日が、きっと来る。
 悲しみではなく、希望とともに息づく記憶として。
 あなただけの、誰にも汚されることのない、尊く、愛おしい思い出として――。
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