もしも願いが二つ叶うなら…

【 結晶のような傷跡 】

 翌日、日付が変わる10分前にチカは美容室に到着した。
 鍵を開けて店内へと足を踏み入れると、真っ暗な空間が迎え入れる。
 誰もいない美容室。静けさが逆に恐怖を煽る。
 チカは照明を点け、誰もいないことを確認してから、思わず口ずさみながら準備を始めた。恐怖を紛らわせるための、ささやかな自己防衛だった。
 しばらくして、特徴的なバイク音が店の前で止まる。
 その音を耳にしたチカは、急いでエントランスへ向かった。

「お待たせ」

 開けたドアから入り込んだ冷たい風に混じって、ケンの体が小刻みに震えていた。
 その寒さに、チカの眠気も一瞬で吹き飛ぶ。

「よろしくお願いします!」

 恐怖と眠気が消えたその口元は、自然と笑みがこぼれていた。

「じゃあ、始めようか」

 そう言ってケンはコートを脱ぎ、メイク用マネキンヘッドの前に立つ。

「まずは化粧水。次に美容液と乳液で肌のコンディションを整える」

 チカはしっかりと頷きながら、その言葉をノートに走らせていく。

「次はベース作りの下地とファンデーション。これは必ず中指・薬指・小指、この3本を使って塗るのが基本」
「人差し指は使わないんですか?」
「人差し指は力が入りやすいから。メイクされてる側は、その力を敏感に感じて肌への当たりが強く感じてしまう。マネキンにやってみよう」

 チカはファンデーションを手に取り、慎重に塗り始めた。

「塗り方は悪くないけど、ちょっと遅いな。それにスポンジの使い方、もうひと工夫欲しい。指は素早く動かして、でも力を抜いて柔らかく。スポンジは塗るんじゃなくて、細かく叩き込んで毛穴を埋めていく感じ。そんなイメージ」

 見惚れてしまうほど細くしなやかなケンの指先が、滑るように動きながら、マネキンに命を吹き込んでいく。

「次はアイメイク。アイシャドウのコツは、まつげの際から入れて、少しずつまぶた全体にぼかしながらグラデーションをつくること」

 チカがペンを走らせている間にも、ケンの手は止まることなく、マネキンの顔を彩っていく。

「じゃあ、フルメイクしてみようか。タイムは……30分」

 一気に現実へと引き戻されたチカは、静かに呼吸を整えて頷いた。

「スタート」

 メイクを進めるチカの横で、ケンは無言のまま、様々な角度からマネキンをじっと見つめる。
 その視線が、チカの緊張感をさらに高めていく。

「ストップ」

 ケンの一声で、張り詰めていた30分が終わった。
 ケンはマネキンの顔を丁寧にチェックしながら言った。

「まだ練習は必要だけど……うん、いい感じ」

 その言葉にチカは両手を上げて喜び、緊張の糸が切れてセット椅子に座り込んだ。
 なんとかケンのチェックに合格し、深夜の練習は無事に終わった。
 道具を片付け終え、時計を見ると午前2時を回ろうとしていた。
 “もう少しだけ、この時間が続いてほしい……”
 そんな思いを胸に、チカは帰り支度を始めていたケンに、前から気になっていたことを口にした。

「どこでメイクの勉強したんですか?」
「去年までニューヨークにいた。そこでメイクを学んだんだ」
「ニューヨーク!? すごい……住む世界が違うって感じ」
「いや、華やかな世界を想像してるみたいだけど、でも現実は真逆。アシスタントの頃なんて、給料が月300ドル。まともに飯も食えなかったよ。給料日前なんて、塩と水で空腹を誤魔化して……生きるか死ぬかの毎日だった」
「……すごいですね。それでもどうしてニューヨークだったんですか?」
「尊敬してる“ジェシカ”っていうメイクアップアーティストがいてさ。その人の弟子になりたくて、ニューヨークに渡ったんだ」

 ――尊敬できる誰かに出会い、全てを捧げるように自分を磨いた時間。
 その過酷な経験が、今のケンを作ったのだ。
 
 
* * *
 
 最初の数か月は、荷物持ちや片付け専門のアシスタントとしての日々だった。
 美容師と同じように、メイクにもステップごとのチェックがあり、それに合格してはじめて次の段階へと進むことができた。
 モデルに触れることを許されたのは、ニューヨークに渡ってから三か月が経った頃。
 やっとの思いで全てのチェックをクリアし、ようやくメイクアップアーティストとしてのスタートラインに立てた。
 最初に任されたのは、中小企業のポスター撮影や、パーティーの専属ヘアメイクといった、小さな仕事ばかり。
 けれど、ある日――
 とあるパーティーで出会った人物から、ある仕事を紹介された。
 “ミュージカルのヘアメイク”
 その舞台での仕事が大成功を収めたことをきっかけに、仕事の幅は一気に広がっていった。
 メイクアップアーティストとして少しずつ評価されはじめ、気がつけば、大手企業の広告撮影や有名ファッション誌のグラビア、さらに大規模なファッションショーまで、次々と舞い込んでくるようになった。
 常にファッションやビューティーの最先端を走る街、ニューヨーク。
 その最前線に、俺は駆け上がっていた。
 次第にさまざまな業界の人たちが、俺のメイクに注目し始めた。
 周囲には賞賛の声、期待の眼差し、肩書きと評価が積み重なっていく。
 ――でも。
 順風満帆に見えたその道は、ある日を境に、突然暗転する。
 理由もわからぬまま、急に手が動かなくなった。
 自分のメイクが、どうしても思うように仕上がらない。
 そんな日々が、続いた。
 そのとき、メイク中の俺を見ていたジェシカが、ぽつりとこう言った。

「ケン。あなたはこの人を綺麗にしてあげたいって、本気で思ってる?」

 そのひとことが、胸の奥に深く突き刺さった。

「今のあなたが失ってしまってるのは、“人を綺麗にしたい”っていう気持ちよ」

 言い返す言葉は、何ひとつ出てこなかった。
 自分の内側にあったものすべてを、まるで透かし見るように言われた気がした。
 いつの間にか、心の中から何かがこぼれ落ちていた。
 “人を綺麗にしたい”という原点の想いが、“メイクをする仕事”という日常にすり替わっていた。
 注目されることに、評価されることに、気づかぬうちに酔いはじめていた。
 以前の俺は、自分がどう思われるかなんてどうでもよかったはずなのに。
 ――だってそうだろう?
 アヤカにメイクをしたいって思ったあの日。
 それは、報酬が欲しかったからでも、誰かに褒められたかったからでもなかった。
 ただ、“綺麗にしたい”――
 その一心だった。
 あのとき、どんなに不器用でも、どんなに未熟でも、
 必死でメイクを学んだのは、アヤカの笑顔が見たかったからだ。
 心の底から、そう願ったからだ。
 気づけば、そんな大切な気持ちを、自分は見失いかけていた。
 俺は、メイクアップアーティストという“職業”に就いたわけじゃない。
 メイクアップアーティストという“生き方”を選んだんだ――。
 そのことを、思い出した。
 その夜は一睡もせず、過去の自分と真っ直ぐに向き合えた。
 いなくなってからも、俺を導いてくれるのは、いつだって――
 アヤカだった。
 
* * *
 
 
「だから今でも、アヤカにあんなことをしてしまった自分が許せない」

 悲しい記憶という名の傷は、ときに、幸せだったはずの思い出までも塗り潰してしまう。
 その痛みは、今もなお――あなたの心を縛り続けている。
 けれど……少しずつ、変わり始めてる自分に、あなたは気づいている?

「メイクは楽しいですか?」

 チカの問いかけに、ケンはほんの少し間を置いて、表情を緩めた。

「楽しくてしょうがない」

 その声は迷いがなくて、澄んでいて、心からの答えに聞こえた。
 だって――
 今、私の瞳に映るあなたは、こんなにもキラキラと輝いて見えるから。
 店を出ると、雪が静かに降り始めていた。
 チカはそっと手のひらを空に向ける。
 広げた掌に落ちてくる雪は、儚く溶けて、すぐに消えてしまった。

「危ないから近くまで送るよ」
「ありがとうございます!」

 バイクを押すケンの横を、チカはゆっくりと歩く。
 頬を撫でる夜風は冷たいのに、心の奥がじんわりと温かい。
 少しずつ、近づいていく――そう感じられた距離。
 “きっと、笑顔にしてみせる”
 そう心の中で、強く、そう思っていた。
 ……あの、深く刻まれた、生々しい傷跡を――
 見てしまうまでは。


【メイクのチェック当日】
 
 スタッフが円陣を組み、店長の声でアシスタントたちの肩に力が入る。

「それでは、チェックの合否を発表する」
「ヤス――ファッションカラー、合格」
「テツシ――グレイカラー、不合格」
「タカユキ――グラデーションボブカット、合格」
「ミサキ――メイク、不合格」
「チカ――メイク、合格」

 ミサキが不合格だったこともあり、素直に喜べない自分がいた。

「勝者とは、諦めなかった敗者のことをいう。諦めないことが、勝利への近道だ。以上」

 店長の言葉は、アシスタントだけでなくスタイリストの胸にも、ずしりと重くのしかかる。

「お疲れ様でした!」

 チェックが終了すると、スタッフたちが一斉に休憩室へとなだれ込む。
 ミサキは黙々と、メイク道具の手入れをしていた。
 それを見たチカも、隣でそっと道具の片付けを始める。
 沈黙のまま手を動かしていたが、ミサキの声と同時にその手が止まった。
「店長の言うとおり――諦めない! 次は絶対、合格してみせる!」
 落ち込んでいると思っていたミサキは、意外にも笑みを浮かべていた。
 その笑みに、チカも自然といつもの穏やかさを取り戻していく。
 スタッフたちが次々と帰っていく中、ミサキはメイク道具を再び広げ、練習を始めた。
 その隣のセット椅子に腰を下ろしたチカは、ケータイを開き、メールを打つ。

 |《今日のメイクチェック、合格しました!》

 しばらくして、ケータイが小さく震えた。

 |《おめでとう》

 ケンからの返信に、チカの頬がゆるむ。
 その顔を鏡越しに見ていたミサキが、ふっと笑った。

 |《ありがとうございます! ケン君のおかげです!》
 |《突然なんだけど、今から時間ある?》

 その一文に、チカの胸がわずかに高鳴る。

 |《ありますけど、何かあったんですか?》
 |《実は、ファッション誌の撮影で予定してた企画が急にボツになって、代わりに急遽コスメ特集を組むことになって。その締切が来週に迫ってるんだけど、モデルがひとり足りなくて。肌も白くて綺麗だし、顔立ちも整ってるから君にお願いできないかなって思った。もしもOKなら、今から会って説明させてもらいたい》

 ファッション誌のモデル……。
 褒めてくれるのは嬉しいけど、自分なんかに本当に務まるのだろうか。
 胸の奥で、小さな不安がざわめいた。

 |《ちなみに、なんていうファッション誌ですか?》
 |《LonーLo。撮影は明後日の火曜日》

 有名なファッション誌。
 しかも火曜ならちょうど休みの日。
 そして何より――ケン君にメイクをしてもらえるかもしれない。
 不安と期待がない交ぜになり、チカは一度ケータイを机に置いた。
 目の前の飲みかけの紅茶を一気に飲み干し、再び両手でケータイを握る。

 |《こんな私にできるかわからないですけど、やってみたいです!》
 |《ありがとう。それじゃあ、30分後に吉祥寺駅の公園口で待ち合わせしよう》
 |《はい!》

 メールを送った後、チカは席を立ち、鏡の前に向かう。
 鼻歌を口ずさみながら髪型を整え、グロスをひと塗り。

「いいことでもあった?」

 ちょうどメイク練習を終えたミサキが、気さくに声をかける。

「今からケン君と会ってくる!」
「順調みたいだね! 楽しんできて!」
「ありがとう!」

 スキップにも似た軽やかな足取りで、店を飛び出し吉祥寺駅へと向かう。
 公園口に到着したのは、約束の5分前。
 手袋越しに両手を擦り合わせながら、少し浮き足立った気持ちで待つ。
 その間、つい頭の中で、勝手な妄想があれこれと膨らんでいた。
 ――が、ケンの声で現実へと引き戻された。

「お待たせ。こんな時間にごめん」
「全然大丈夫です!」

 チカの表情は、自然と笑顔へと変わっていった。

「どこか入ろうか」

 そう言って歩き出したケンの後ろ姿を、チカは上機嫌で追いかける。

「あら! ケンケン、いらっしゃい!」

 馴染みのある声に、ケンは右手を軽く挙げて応える。

「お久しぶりです」

 チカは、自分のことを覚えていてくれているか不安に思いながら、探るように頭を下げた。

「あなたは確か、この前ジュンジュンと……」

 おばちゃんが珍しく困ったような表情を見せる。

「覚えていてくれたんですね! 先日はごちそうさまでした!」
「当たり前よ! こんな可愛らしい子、忘れるわけないじゃない! 今日もゆっくりしていってね!」
「はい! お邪魔します!」

 席に着くと、ケンがふとチカに尋ねた。

「この店、来たことあったんだ?」
「はい。この前、ジュンさんに連れてきてもらいました!」

 納得したようにケンが頷いたその時、カウンターの方からおばちゃんの大きな声が店内に響いた。

「ケンケン、いつものでいいの?」
「いや、今日は仕事抜けて来ただけだから、烏龍茶で」
「はいよ! あなたは?」
「私も烏龍茶でお願いします!」

 チカも負けじと元気よく注文すると、おばちゃんは笑顔で厨房へと戻っていった。

「じゃあ早速だけど、今回の企画内容を説明するね。春の最新コスメの紹介で、そのコスメを使ってビフォーとアフターを撮影していく。撮影は午前11時スタート、場所は青山」
「――はい」

 チカの表情に少し曇りが見えたのを、ケンはすぐに察した。

「不安?」
「少しだけ……」
「撮影は初めて?」
「はい。ヘアカタログの撮影現場にアシスタントとして行ったことはあるんですけど、モデルとしての撮影は初めてで……」

 自信なさげに目を伏せたチカの声は、どこか頼りなかった。
 そんなチカを見て、ケンがふと言った。

「俺がついてるから、大丈夫」
「――頑張ります!」

 あなたの言葉は、いつだって不思議と心に強く響く。
 それは、私の心の宝箱にそっとしまっておきたい――そんな、大切で幸せな言葉。
 その後も企画の説明は続き、気づけばケンが仕事へ戻る時間が近づいていた。
 店を出てケンを見送ると、先ほどまで胸を占めていた不安は、いつの間にかすっかり消えていた。
 たった一言で、こんなにも穏やかで、心安らぐ気持ちになれるのは――
 生まれて初めてのことだった。
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