フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「アレ、は怖い存在だ。今はまだ尻の青い若造だが、これから知識をつけて、この世界に足を踏み入れてみろ」


どうなるとお考えです? 、と桔平が前のめりになるのが横目に飛び込んで来た。


桔平の食いつき方は、少し、尋常ではなかった。


「ぜひ、ぜひぜひ、鷹司様の意見をお聞きしたい」


少しの沈黙のあと、ようやく、鷹司一郎が口を開いた。


こんな事は言いたくはないのだが、と。


「風向きは一気に変わるだろうな。私どもに吹く追い風は、確実に向かい風になるだろう。アレ、は怖い存在だ」


なあ、コウ、と鷹司一郎が話しを振った時、今しかチャンスはない、と思った。


もう、我慢の限界を超えていた。


「すみません!」


ついに私はスッと立ち上がり、座席にナプキンを捨てるように置いた。


「どうされました?」


ぎょっとした顔で、鷹司一郎が私を見上げる。


「あの……少し、酔いを醒ましたくて」


「ああ、気付けず申し訳ない。それなら」


鷹司一郎はにこりと笑って、


「この奥に夜景を一望できるカウンターがあるから、そこで休まれるといい」


と奥を指さした。


「有り難うございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」


私は小さなポーチバッグを手にすたすたと壁が死角になっているカウンター席へ急いだ。


一刻も早くあの場所から逃れたくてたまらなかった。


カウンターには誰も居なかった。


がらんとしたカウンターの椅子に浅く腰掛けて、ようやく、解放感に満たされた。


カウンターからの眺めは、おそらく、絶景だ。


この街を一望できるし、下界のネオンは蛍光ビーズを散りばめたようだし、女なら誰でもうっとりするような夜景と思う。


でも、今の私にはこの眺めを美しいと思える余裕はもう、ほとんど残されていなかった。


疲れて、へとへとだった。


ふうう、と長い息を吐く。


助かった。


「帰りたいわ……もう」


と、テーブルにつっぷした。


苦しかった。


体を、何かで縛り付けられているようだった。


私が一刻も早く逃げ出したかったのは、あの食事の席ではない。


私が逃げたくてたまらなかったのは、あの目だ。
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