フィレンツェの恋人~L'amore vero~
振り向くと、タカツカサコウが立っていた。


「何がそんなに、楽しいのかな」


いかにも高そうなスーツのポケットに、片手を突っ込んで。


「いいえ。楽しい事なんて」


慌てて携帯電話をバッグにしまおうとして、床に落としてしまった。


「あっ」


そして、よりによってぴかぴかの床を逃げるように滑って行った携帯電話は、彼の靴のつま先にぶつかって、静止した。


何も言わずに、彼は携帯電話を拾い、カツ、カツ、と歩み寄って来て言った。


「あなた、本当は、誰ですか?」


ドクン、と心臓が脈を打った。


声を出す事ができなかった。


「嘘は、良くないですね。あなたは、柏木の妻ではない」


違いますか? 、と彼は不敵な笑みを口元に浮かべる。


作り物ではないかと思えるほど整った歯並びが、やけに白く明るく見えた。


「……なぜ、そう思うのですか?」


声が、上ずってしまった。


同時に、なんて間抜けなのかと、自分を叱責した。


私は柏木桔平の妻です、と返せばいいだけのこと。


なぜそう思うのですか、だなんて。


これじゃあ……。


「そのお返事では、はい、そうです、と言って認めているようなものですよ」


と彼は言い、動揺を隠し切れず困惑する私の手を掴み、手のひらに携帯電話をそっと置いた。


「あ……ありがとう、ございます」


上ずる声を必死にごまかしながら、携帯電話をバッグに押し込んだ。


「大丈夫です。安心して下さい。これをネタに柏木さんをゆすったりなんてしませんから。それに」


と彼は淡々と続けた。


「親父は、地位と金と名誉と結果にしか興味のない、愚かな人間ですから。気付いていませんよ。あなたが、偽物だという事には」


隣よろしいですか、と聞きながら私の返事も待たずに、彼は隣の椅子に浅く腰掛けた。


「何か、飲みますか?」


と聞いて来た彼に、私は冷酷すぎるほどのあからさまな態度で返した。


「結構です。お戻りになって下さい。あなたとは話したくないの」


一瞬の沈黙のあと、彼は水泳の息継ぎのようにプ八ッと笑った。


「そこまではっきり言われると、さすがに傷つくなあ」


彼から、ほんのりと大人の男の香りがした。


危険な香りだ、と思った。


「なら、遠回しに言います。仕事の話を途中に投げ出すなんて、社長として失格行為だと思います」


「いいんですよ。大嫌いなので。ああいう話をすると、肩が凝る」

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