フィレンツェの恋人~L'amore vero~
運転手が戻ってくると、煌さんは急かすような口調で言った。


「出してくれ」


「かしこまりました」


運転手は言い、バックミラーで私を確認したあと、本当にすぐに車を発車させた。


職場がみるみるうちに遠ざかって行く。


「どういうおつもりですか?」


私は煌さんを睨み付けて、大きな声を出した。


「降ります! 降ろして下さい!」


車内は高級なクリーム色の革シートとル・マルの甘くてスパイシーな香りが立ち込めていた。


「手荒い真似をして申し訳ない。しかし、今しか時間に都合が付けられなくて」


「おっしゃっている意味が分かりません!」


「ですから、今夜には日本を発たなければならないと言っているんですよ。パリまで12時間かかりますから」


「それは、煌さんの事情でしょう? 私にはまったく」


関係のない事なのに。


「ああ、これだから女性は」


疲れるとでも言わんばかりに肩をすくめて、煌さんは右手で私の口元をぱたりと塞いだ。


「向こうに戻る前に、どうしても、お会いしたかった。東子さん、あなたに」


おそろしい香りだ。


ル・マル。


好きでも、嫌いでもない。


けれど、なぜこんなに私を惹きつけるのか分からない。


ハルが言っていた。


悪魔の香りだ、と。


ハルはこの香りに尋常ではないくらいの拒否反応を起こした。


「安心して下さい」


硬直する私の口元からすっと手を離して、


「午後の業務には間に合うように、送りますから」


と煌さんは微笑み、露骨に目を反らした。


「……どこへ向かっているんですか?」


私が聞いても、絶対に目を合わせようともしない。


でも、煌さんは小さく笑って、


「ふたりきりになれるところです」


革のシートにもたれて、眠るようにそっと目を閉じた。


「着くまで目を休めてもいいですか? 少し、疲れているんです」


気品たっぷりの顔立ちに、はっきりとした目の下の濃いクマが痛々しかった。


「……はい」


煌さんに心を許したというわけではなかった。


でも、もうやっきになって抵抗しようとも無理やり降りようとも思わなかった。


私は、目を閉じたまま車に揺られるその横顔に言った。

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