フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「では、また伺わせていただきます」


と品良く微笑み、煌さんは車に乗り込んでドアを閉めようとする。


「……待って!」


閉まりかけたドアを力ずくで制御して、私は煌さんから携帯電話を奪い取り、大至急ナンバーを打ち込んだ。


そして、それを突っ返した。


「これでいいですか?」


「ええ」


ディスプレイを見つめて、煌さんが頷く。


「確かに」


「ですから、もうここへは来ないでください」


煌さんは携帯電話をぱたりとたたみ、スーツの内ポケットにしまった。


「約束しましょう」


ほっと畝を撫で下ろした次の瞬間、斜め背後で物音がした。


振り向く先に立っていたのは、華穂とその部下だった。


「……華穂?」


明らかに、彼女の様子がおかしい。


雨上がりのまだ濡れているアスファルトに白い携帯電話と財布、それから、数枚の書類が散乱していた。


「チーフ! 何してるんですか」


慌てて書類を拾い集める部下の横で、華穂は雷に打たれたように立ち尽くし、唇を震わせ、黒光りする車体を見つめている。


今にも、泣きそうな目で。


薄紅色の唇が微かに開く。


私は息を飲んだ。


「……コウ」


と、華穂が確かに言ったのだ。


彼の名前、を。


灰色の雨雲の切れ間から、淡い陽射しがこぼれるように落ちてくる。


車から出て来た煌さんが華穂を見つけて、曖昧に微笑む。


優しく、でも、とっても困った顔だった。


眩しくて、私は目を細めた。


華穂の潤んだ瞳が、冬の寂しげな陽射しを跳ね返した。


「コウ!」


華穂は、泣いていた。
< 219 / 415 >

この作品をシェア

pagetop