フィレンツェの恋人~L'amore vero~
雑音や騒音なんて存在しないような森閑とした本当に静かな通りだった。
その通りでは車や自転車は一台も通っていなかった。
たった今さっき、現地のランナーひとりとすれ違っただけで、向こうから老女がひとり日傘を差しながらゆっくりと歩いて来るだけだ。
あとは、私だけで。
来てはいけない神聖な領域にうっかり足を踏み入れてしまったような気がして、ハッとした。
「いけない」
急に心細くなって、急いで踵を返した、次の瞬間だった。
背後から物凄いスピードで走って来た人物が、さっきすれ違ったランナーだと認識した時にはもう、私はアスファルトに尻餅をついていた。
「Merci! (ありがとう)」
その男はそう言うと、私のバッグを持って走って行った。
閑静な通りに男のシューズのゴムがアスファルトを弾く音が、やけに大きく響く。
「あ……りがとう、って」
バッグをあげた覚えはない。
「……嘘!」
ひったくりだ、とようやく気付いた時、男はもう、向こうにいた老女の横を通過していた。
「Au voleur! (泥棒!)」
上ずりながらも今出せる精一杯の声で叫んだ。
勿論、すぐに追いかけようとは思ったけれど、できなかった。
怖かった。
肝は冷え切り、恐怖の針に体がすくんだ。
怖いというより恐ろしくて、生きた心地がしなかった。
だってまさか。
自分の身に災いが降りかかるなんて、これっぽっちも思っていなかったのだから。
「Au secours! (助けて下さい!)」
叫んだところで、一番近くに居るのは老女だけ。
もう駄目だと思った。
アスファルトの上を、真っ黒な日傘が転がっている。
老女は私以上に驚いた様子で口をまんまるに開けたままそこにぺたりと座り込んでいた。
もう終わりだ。
もう、日本へ帰ることもできないかもしれない。
このままじゃ、私は不法入国者扱いされるかもしれない。
「Au secours……(助けて)Quelqu'un……(誰か)Quel……」
バッグには財布はもちろん、パスポートも長期滞在学生ビザも入っているのに。
最低最悪の事態が起きてしまった。
その通りでは車や自転車は一台も通っていなかった。
たった今さっき、現地のランナーひとりとすれ違っただけで、向こうから老女がひとり日傘を差しながらゆっくりと歩いて来るだけだ。
あとは、私だけで。
来てはいけない神聖な領域にうっかり足を踏み入れてしまったような気がして、ハッとした。
「いけない」
急に心細くなって、急いで踵を返した、次の瞬間だった。
背後から物凄いスピードで走って来た人物が、さっきすれ違ったランナーだと認識した時にはもう、私はアスファルトに尻餅をついていた。
「Merci! (ありがとう)」
その男はそう言うと、私のバッグを持って走って行った。
閑静な通りに男のシューズのゴムがアスファルトを弾く音が、やけに大きく響く。
「あ……りがとう、って」
バッグをあげた覚えはない。
「……嘘!」
ひったくりだ、とようやく気付いた時、男はもう、向こうにいた老女の横を通過していた。
「Au voleur! (泥棒!)」
上ずりながらも今出せる精一杯の声で叫んだ。
勿論、すぐに追いかけようとは思ったけれど、できなかった。
怖かった。
肝は冷え切り、恐怖の針に体がすくんだ。
怖いというより恐ろしくて、生きた心地がしなかった。
だってまさか。
自分の身に災いが降りかかるなんて、これっぽっちも思っていなかったのだから。
「Au secours! (助けて下さい!)」
叫んだところで、一番近くに居るのは老女だけ。
もう駄目だと思った。
アスファルトの上を、真っ黒な日傘が転がっている。
老女は私以上に驚いた様子で口をまんまるに開けたままそこにぺたりと座り込んでいた。
もう終わりだ。
もう、日本へ帰ることもできないかもしれない。
このままじゃ、私は不法入国者扱いされるかもしれない。
「Au secours……(助けて)Quelqu'un……(誰か)Quel……」
バッグには財布はもちろん、パスポートも長期滞在学生ビザも入っているのに。
最低最悪の事態が起きてしまった。