フィレンツェの恋人~L'amore vero~
すると、人影は通りに飛び出して来て立ち止まり、目を細めて向こうを見つめたあと、
「C'est difficile,(難しいな)mais j'essaierai(でも、やってみよう)」
にっ、と口角を上げた。
「D'accord(オーケー)」
瞬間、風も時も止まったんじゃないかと勘違いしそうになった。
ヒュッ、と短命な風が頬を撫でた直後に。
私は「あっ」と声を漏らして、あとは夢中になった。
パリ上空に広がる空色の下を、疾風のように駆けて行った彼の後姿に、のめり込んだ。
同時に、甘くスパイシーな残り香にも。
ダークグレイ色のスーツの裾は正義の味方のマントみたいで。
いいえ。
まるで、黒い羽根の天使に見えた。
光沢のある革靴がアスファルトを弾くたび、カツコツと音が響いた。
ころころと老女の日傘が転がる音と交互に混ざり合いながら。
私は息をするのも忘れて、彼の背中を見つめ続けた。
すらりと背が高くて、真っ黒なつやつやの髪の毛で。
清潔感たっぷりの真っ白なワイシャツ。
しわのないスーツに、水色のネクタイと、ぴかぴかの革靴。
まるで野生動物のような軽い身のこなしで。
黒豹のような速さで走って行ったと思った時にはもう、
「Punition! (成敗!)」
彼はすでにひったくりの男の背中を捕えていた。
ピューウイ。
老女が小粋な口笛を吹き鳴らして、
「Incroyable! (信じられないわ)」
と少女のように若々しく立ち上がり、
「miracle! (奇跡ね)」
ころころ転がる日傘を拾い上げた。
私だって、同じ事を思った。
奇跡という他に、どんなふさわしい言葉があったというのだろう。
それは奇跡と呼ぶには信じがたく、かと言って、他に相当する言葉も見当たらなくて。
本当に、一瞬の出来事だった。
ひったくりをアスファルトに押し倒して、私のバッグを取り返し、彼は全速力で駆け戻って来たのだ。
あっと言う間に。
コツ。
彼はまるで、つま先で小石を蹴っ飛ばしたような音を鳴らして私の前に立ち止まり、特に乱れているわけでもないネクタイを静かに締め直す。
その水色のネクタイが、夏のきつい陽射しをはねのける。
「C'est difficile,(難しいな)mais j'essaierai(でも、やってみよう)」
にっ、と口角を上げた。
「D'accord(オーケー)」
瞬間、風も時も止まったんじゃないかと勘違いしそうになった。
ヒュッ、と短命な風が頬を撫でた直後に。
私は「あっ」と声を漏らして、あとは夢中になった。
パリ上空に広がる空色の下を、疾風のように駆けて行った彼の後姿に、のめり込んだ。
同時に、甘くスパイシーな残り香にも。
ダークグレイ色のスーツの裾は正義の味方のマントみたいで。
いいえ。
まるで、黒い羽根の天使に見えた。
光沢のある革靴がアスファルトを弾くたび、カツコツと音が響いた。
ころころと老女の日傘が転がる音と交互に混ざり合いながら。
私は息をするのも忘れて、彼の背中を見つめ続けた。
すらりと背が高くて、真っ黒なつやつやの髪の毛で。
清潔感たっぷりの真っ白なワイシャツ。
しわのないスーツに、水色のネクタイと、ぴかぴかの革靴。
まるで野生動物のような軽い身のこなしで。
黒豹のような速さで走って行ったと思った時にはもう、
「Punition! (成敗!)」
彼はすでにひったくりの男の背中を捕えていた。
ピューウイ。
老女が小粋な口笛を吹き鳴らして、
「Incroyable! (信じられないわ)」
と少女のように若々しく立ち上がり、
「miracle! (奇跡ね)」
ころころ転がる日傘を拾い上げた。
私だって、同じ事を思った。
奇跡という他に、どんなふさわしい言葉があったというのだろう。
それは奇跡と呼ぶには信じがたく、かと言って、他に相当する言葉も見当たらなくて。
本当に、一瞬の出来事だった。
ひったくりをアスファルトに押し倒して、私のバッグを取り返し、彼は全速力で駆け戻って来たのだ。
あっと言う間に。
コツ。
彼はまるで、つま先で小石を蹴っ飛ばしたような音を鳴らして私の前に立ち止まり、特に乱れているわけでもないネクタイを静かに締め直す。
その水色のネクタイが、夏のきつい陽射しをはねのける。