フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「弟の誕生日なんだ」


ハッとした。


さっきの語りかけるようなイタリア語もきっと。


煌の弟に向けられたものに違いない。


「ごめんなさい!」


慌てて椅子を立つ。


「何が? なぜ、華穂が謝るの?」


私を見上げる煌が、目を丸くした。


「だってそんな大切な日だって知らないんだもの。ごめんなさい。私に付き合わせてしまって」


「え?」


「パスカルもパスカルだわ。煌にだって予定があるわよね」


ごめんなさい、と私は頭を下げながら続けた。


「帰った方がいいわ。帰るべきよ。お誕生日を祝ってあげて」


さあ早く、と急かすように煌の腕を掴んで引っ張る。


「家族みんなでお祝いしてあげるべきだわ」


「いいんだよ、気にしないで」


「ダメよ」


「いいんだ。本当に」


どうしたって無理なんだから。


そう言って笑いながら、煌はもう一度椅子に座るように言った。


「無理って?」


聞きながら、言われたように椅子に腰を下ろす。


「祝ってやりたいけど。僕は無力な人間だから、どうする事もできやしない」


なんて不思議な空間なのだろう。


今は8月で、真夏で、差し込む陽射しだってきついのに。


教会の中は仄かに涼しくて、ぐるりと一面真っ白で。


「弟は、フランスには居ないから」


「居ないって」


私は小首を傾げた。


「……留学でもしているの? 旅行、とか?」


まさか、と煌が首を振る。


「煌の弟は、どこに居るの?」


「イタリア、かな。イタリアの……おそらく」


変だなと思った。


かな、とか、おそらく、だとか。


家族なのに、連絡を取り合っていないのだろうか。


「これは、僕のあてにならないカンに過ぎないけれど」


と煌はワインレッド色に輝くステンドグラスの向こうを指さしながら、言った。


「フィレンツェ」


「……フィレンツェ?」


聞き返すと、煌はしっかりと頷いて、本当にゆっくりと繰り返した。


「Firenze、フィレンツェ」


煌に、同情など一切していない。


するつもりなど、これっぽっちもない。


不憫には思わない。


「僕はお金には興味はないし。父のように地位にも権力にもこだわりなどない」


けれど、胸が詰まった。
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