フィレンツェの恋人~L'amore vero~
軽快な足音が、迫って来る。


雨上がりのアスファルトを弾く、高貴な靴の音。


その足音に、私の胸は高鳴った。


淡い期待と色濃い祈りを抱きながらゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。


向こうに、ルーヴル美術館が見える。


それは、橋の右岸方向から確実に迫って来た。


私は息を飲み込みながら、視線を右に流した。


すらりとした人影が、あった。


そのシャープなラインのシルエットはアンリ4世の騎馬像手前で減速して、そして、急ブレーキを掛けるように立ち止まった。


はあはあ、荒い息づかいが聞こえる。


そのシルエットの正体にはっきりと気付いたのは、左岸方向から走って来た1台の車のヘッドライトに照らされた直後だった。


私はベンチから飛び降り、直立した。


「……煌」


キラ。


小さく、微かに輝いたのはその真っ黒な瞳だった。


「華穂? 君……ジョゼットと帰ったはずじゃ」


一体、どこから引き返して来たのだろう。


「なぜ、ここに居るんだ」


戻って来たのかと聞きながら近づいて来た煌は、汗だくだった。


「戻って来たの。あなたに……言い忘れた事が……あったから」


煌は? 、と聞き返すと、彼もまた私と同じ事を言った。


「僕も、君に言い忘れた事があって」


これから君たちのアパルトマンに行こうと思って、と。


くすぐったそうにはにかみながら、煌が続けた。


「それと、ジョゼットに許しを請いに行こうと思って」


「許し?」


間抜けな声で首を傾げると、


「ああ、いや。まあ、それは後で。君の言い忘れた事って?」


と絶妙な上手さで逆に話を振られてしまった。


「あ……私は……」


右手の中で、バレッタをきゅうっと握りしめる。


「お礼を……ありがとうって、言ってなかったから。言いたくて」


「何のお礼? お礼を言われるような事は何も」


「ありがとう、煌」


真っ直ぐに、煌の瞳を見つめて、言った。


「優しい休日をありがとう」


右手を伸べて、ゆっくりと指を広げながら。


「あ……」


私の手のひらの中を見て、煌が微笑む。


「気に入ってもらえた?」
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