フィレンツェの恋人~L'amore vero~
煌を起こさないように、気を使っているのだろう。


ひそひそと小声で、ジョゼットが言う。


「Kaho,passons s table (食事にしましょう)」


さあ、席について、とおたまを左右に振り鼻歌交じりに機嫌良く、ジョゼットはキッチンに入って行った。


「Oui」


煌にブランケットを掛け直して、私も立ち上がる。


煌を起こさぬよう、細心の注意を払いながら。


ねえ、煌。


「ありがとう」


私に会いに来てくれて、ありがとう。


「……煌」


私なんかに会いに来てくれて、ありがとう。


煌の寝顔を見つめて、何度も何度も、ありがとうを繰り返す。


キッチンの奥からは食器の音と、ジョゼットの調子っぱずれの鼻歌が聞こえてくる。


たぶん、ジョゼットは、たぶん、パッヘルベルのカノンをハミングしているのだ。


調子っぱずれだけど、おそらく、そうなのだと思う。


その日、ジョゼットが出してくれたのは、鶏肉をたっぷりのニンニクとトマトソースで長時間かけてやわらかく煮込んだ、彼女の郷土の伝統料理。


プレー・プロヴァンス。


それは本当に美味しくて、本当に元気になれたような気がした。


今日は特別に洗い物もしてくれるとジョゼットが言うので、私はその好意に甘え、寝室で少し胃を休めてからお風呂に入ることにした。


寝室へ入るなり、私は明りも付けずに、真っ直ぐベッドへ向かい、背中から仰向けに寝転んだ。


じーっと天井を見つめる。


しばらくすると暗がりに目が慣れてくる。


夜の空間に、私の鼓動だけが響く。


ごろんと寝返りを打ち、じーっとドアを見つめた。


音の無い世界にふらりと迷い込んでしまったような、静かな静かな夜だ。


窓から差し込む月明かりが、本来ならば真っ暗なはずの空間をぼんやりとか弱く照らしている。


このたった一枚のドアを隔てた向こうに、煌が眠っているのだと思うと、なぜだかとても心が安らいだ。


次第に微睡が訪れて、私はベッドに沈みゆく体の重さを感じながら、ゆっくりと、本当にゆっくりと目を閉じた。


煌。


あなたは、変なひとね。


だって、嘘を付く時でさえ、優しいんだもの。


そして、その嘘さえも、優しいのね。


私を傷つけまいとして、嘘をついてくれたのでしょうね。


たまたま、偶然、と。


今宵の月明かりのように。


あなたは優しい人ね。


煌。
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