フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「勉強も、仕事も。僕にとっては全く苦ではなかった。あんなもの、決められたノルマをこなせばいいだけじゃないか。だけど、本当に疲れたよ」


「あの……煌……」


私は恐る恐るドアノブに手を添えた。


ゆっくり、本当にゆっくりとドアノブを回してみる。


「……華穂」


数センチ開いたドアの隙間から、漏れるように優しい声が侵入してくる。


「君に会えない毎日に……僕は、本当に疲れたんだ」


キ……。


さらに数センチ開いたドアの隙間から、今度ははっきりとした声が耳に届いた。


「会いたかったんだ」


視界に彼の革靴が飛び込んできて、一瞬、輝くように光沢を放った。


「君に会いたくて、たまらなかった」


ゆっくりと視線を上げながら、


「会わない間に君が居なくなるんじゃないかって。日本に帰って……しまうんじゃないか……って」


「……煌っ」


私は唇を噛んだ。


そうでもしないと、涙がこぼれてしまいそうだった。


「華穂……僕は……僕はね……」


なんて美しい目を、この人はしているのだろう。


その瞳を保護するように、透明な膜が張っている。


「僕はっ」


たった一度の瞬きで透明な膜が壊れてしまうのを回避するかのように、煌は懸命に目を見開いていた。


過去ではなく、未来でもない。


今。


今、私の前に立ち、涙を堪えているこの人を。


「こ、う……」


たまらなく、猛烈に、いとおしいと思う。


私は唇を真一文字に結んだまま手を伸ばし、緊張し震える指で彼の頬に触れた。


その瞬間、煌はハッとした様子で体を硬直させた。


そのほんの些細な衝撃で、煌のシャープなフェイスラインをひと粒の涙が伝い落ち、それは私の指先で細かく砕けてしまった。


触れてはいけないものに触れてしまった気がして、思わず手を引っ込めた。
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