フィレンツェの恋人~L'amore vero~
――冷たいものでも飲まないか。今日も暑かったからね
――……一郎さん、私……私
――ああ、そうだ。君の好きなミント水を作ろう
――ありがとう……ごめんなさい、ごめんなさい
ほうっ、と安堵にかられた表情を見せた瞬間、入れ違いに美しい顔の上に混乱が広がった彼女を見て、
――君が無事なら、僕はそれでいい。他に何も望まない
と煌の父は何も言うなと言わんばかりに抱き締めたのだという。
『父のその優しさがかえって母を苦しめたのかもしれない。母は責められて怒鳴られて、鷹司の家から追放されてしまいたかったんだ。きっとね』
その時、煌はまだ15歳という多感な時期だったのだから、戸惑いと葛藤に押し潰されていたのではないだろうか。
その夜、煌は部屋で離婚届を切り刻みゴミ箱へ放り込み、拳銃を机の一番下の引き出しの奥に押し込んだ。
『それからの母は、まるで廃人だった』
食事は一切摂らなくなった。
眠るという行為を忘れてしまったかのように、いつも窓辺のチェアーに膝を抱えて座っていた。
朝も昼も夕方も、夜になって、真夜中になっても。
一日中ずっと窓越しに外の景色を眺めたり、ぼんやりと虚ろな目で空を見つめていた。
話しかけても、肩を叩いてみても、返事はおろか、反応ひとつ示さなかった。
『そんな日がひと月ほど続いて、母はみるみるうちに痩せこけていったよ』
顔は蝋のように血の気を失い、常に仮面のような表情で。
何をやってみる気力も興味も生まれた時から持たないような顔をして。
ただ、ぼんやりと外ばかり眺めていたのだという。
『ある日の真夜中、僕はぞっとした。何だか眠れなくて、リビングに行ったら』
暗闇に浮かび上がったその姿は淡い月光を浴びて、何か呪いの呪文を唱える妖婆のように見えた。
『母が何かブツブツ呟いていたんだけど……それが奇妙で。だって、誰かと話しているんだ。そこには誰も居ないのに』
そして、その翌朝、煌の日常は一変した。
――……一郎さん、私……私
――ああ、そうだ。君の好きなミント水を作ろう
――ありがとう……ごめんなさい、ごめんなさい
ほうっ、と安堵にかられた表情を見せた瞬間、入れ違いに美しい顔の上に混乱が広がった彼女を見て、
――君が無事なら、僕はそれでいい。他に何も望まない
と煌の父は何も言うなと言わんばかりに抱き締めたのだという。
『父のその優しさがかえって母を苦しめたのかもしれない。母は責められて怒鳴られて、鷹司の家から追放されてしまいたかったんだ。きっとね』
その時、煌はまだ15歳という多感な時期だったのだから、戸惑いと葛藤に押し潰されていたのではないだろうか。
その夜、煌は部屋で離婚届を切り刻みゴミ箱へ放り込み、拳銃を机の一番下の引き出しの奥に押し込んだ。
『それからの母は、まるで廃人だった』
食事は一切摂らなくなった。
眠るという行為を忘れてしまったかのように、いつも窓辺のチェアーに膝を抱えて座っていた。
朝も昼も夕方も、夜になって、真夜中になっても。
一日中ずっと窓越しに外の景色を眺めたり、ぼんやりと虚ろな目で空を見つめていた。
話しかけても、肩を叩いてみても、返事はおろか、反応ひとつ示さなかった。
『そんな日がひと月ほど続いて、母はみるみるうちに痩せこけていったよ』
顔は蝋のように血の気を失い、常に仮面のような表情で。
何をやってみる気力も興味も生まれた時から持たないような顔をして。
ただ、ぼんやりと外ばかり眺めていたのだという。
『ある日の真夜中、僕はぞっとした。何だか眠れなくて、リビングに行ったら』
暗闇に浮かび上がったその姿は淡い月光を浴びて、何か呪いの呪文を唱える妖婆のように見えた。
『母が何かブツブツ呟いていたんだけど……それが奇妙で。だって、誰かと話しているんだ。そこには誰も居ないのに』
そして、その翌朝、煌の日常は一変した。