フィレンツェの恋人~L'amore vero~
『朝、近所のブランジュリーでバゲットを買って家に戻って、食事の支度をしていたんだけど』


煌がキッチンに立っていた時。


ふと気配を感じて振り向くと、


――おはよう


あっけらかんと微笑む彼女が立っていた。


『ああ、やっと乗り越えてくれたのかって、元気になってくれたんだなってほっとしたんだ。だけど、そうじゃなかった。明らかに様子がおかしいんだ』


――パンなの? わたし、パンはあまり好きじゃない。お米がいい。おむすびとか


『母は焼立てのシンプルなバゲットが大好きなはずなのに。だから、戸惑ったよ』


そんな煌を見て、彼女はくふくふと笑ったのだという。


『とても無邪気な少女のような顔で言うんだ。そんなに驚かないで、って。初めまして、って』


――わたしはミチル。7歳なの。日本人


『後悔したよ。なぜ、もっと早く気付いてあげられなかったのかって。そうなってしまうくらい、母は思いつめていたのに』


もっと早く病院に連れて行くべきだった、とあの時、煌は本当に悔しそうに奥歯を噛みながら、初対面の私に話してくれた。


――わたしたち、お友達なの。だから、あなたの事もヒロコが教えてくれた……コウ


『病院に連れて行った時はもう遅くて。医師から告げられた時、言葉が見つからなかったよ』


その原因は、何らかの大きなショックとストレスではないかと言われた。


『僕たちには想像もつかないようなショックだったんだろうね。無理もないさ。心から愛した人間に2度も裏切られたようなものなのだから。子供を奪われ……銃を向けられたんだ』


解離性同一性障害。


『母は認めたくなかったんだ、きっとね。誰かを心から愛した事も、その人物に裏切られた事も。全て』


記憶の中から辛い出来事を全て排除し抹消しようとして、新たに違う人格を自ら造り出し、この苦しい現状を回避しようともがいた結果だろう。


そう、医師は言ったのだという。


『一度は専門の治療施設を利用する話も出たけど、できなかった。僕も、父も』


それから煌は15という多感な時期から母親の介護に追われながら生きてきたのだ。

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