フィレンツェの恋人~L'amore vero~
「ごめんなさい、ハル。私、お風呂に入って来る」


「……」


ハルは何も反応せず、叩かれた手の甲を見つめてただうつむいていた。


「コーヒー、冷めないうちに飲んで」


テレビのリモコンはテーブルの上、あれはそこ、これはそっち、と早口で説明したのは、急がないと大声を荒げて泣き狂いそうだったから。


「何でも好きなようにしていいから。眠りたかったら寝てもいい」


涙を堪えてキッチンを飛び出そうとした瞬間、


「東子さん」


ハルに腕を掴まれた。


ぴきり、と骨が軋みそうなほど、酷く強い力だった。


振り向くと、ハルはうつむきながら言った。


「怒らせるような事、言った?」


ハルの声が震えている。


そして、私を腕を掴む、その手も。


「いいえ。ハルは何も悪くないわ」


「でも、東子さんに嫌な思いをさせたのなら謝るよ。ごめんなさい」


ごめんなさい、ともう一度繰り返して顔を上げたハルは、見た事もないような悲しい表情をしていた。


「だから、お願い。東子さん」


なぜ、ハルはそんなに傷ついた目をしているのだろう。


「ぼくを、捨てないで」


「……ハル?」


「ぼくには、東子さんしかいないんだ」


すぐに返事をする事ができなかった。


捨てられた子犬のような悲しみにくれた目を、ハルはしていた。


「捨てないで」


「……何を言っているの。ハルはまだ若い。なのに、全てを失ったような目をしないで」
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