フィレンツェの恋人~L'amore vero~
離して、とハルの手をほどいてキッチンを出る直前に、背中を向けたまま私は言った。


「捨てないわ。ハルの事」


コーヒーの苦い香りが薄れて行く。


「私、分かるもの。捨てられる人間の気持ちが」


とても、良く分かるから。


「冷めないうちに飲んでね。コーヒー」


私は急いでバスルームに駆け込み、バタリと乱暴にドアを閉めた。


急いでシャワーを全開にして、痛いほどの水圧を頭からかぶった。


冷え切った体に、ぴりぴりとお湯が沁みる。


滝のような水圧に打たれながら、葛藤と闘った。


「ばかみたいだわ……本当に……ばかだわっ……」


シャワーを頭からかぶりながら、私はしゃがみ込んでぺったんこのお腹を抱きしめた。


本当にばかな事をしてしまった。


なんて愚かな事をしてしまったのかと、自分を叱咤した。


「今更、何を後悔しているのよっ……」


私は、大ばかだ。


ハルの言った通り、私は泣くのを我慢していた。


だから、ひと粒あふれた途端、今度はバケツをひっくり返したように涙がシャワーのお湯と一緒に流れた。


まるで、荒れ狂った濁流のように。


もしも、あの時、あんな事をしていなければ、今、慎二の隣で幸せを噛みしめているには私だったのかもしれない。


けれど、どうしても、ああする他なかった。


慎二の子を授かったのは、今年の夏の事だった。


私はその事実を慎二にも親にも告げず、一人で中絶の手術を受けた。


桔平にだけ告げたのは、他に頼れる人が居なかったからだ。


同意書のサインは、桔平にしてもらうしかなかった。


――おれには、東子の気持ちが全然分からないな!


桔平は怒りに狂っていたけれど、最後のは渋々サインをしてくれた。


私が言ったからだ。


――子供は可愛いと思うわ。でも、捨てられた私は、子供の愛し方が分からないの


――愛する男の子供でも?


――そうね。愛せないと思う
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