フィレンツェの恋人~L'amore vero~
話し終えたハルは、困った顔で私を見ていた。


「困ったな」


そう言って。


「どうして東子さんが泣くの。東子さんは、アルテミスじゃないのに」


「いいえ。私はアルテミスよ」


そして、アルテミスとはくらべものにならい程の、残酷で卑劣な女だわ。


罪の無い命を、自らの意思で消した、傲慢な女だもの。


慎二との間に授かった、あの子を。


頬を伝う涙は、後悔そのものだった。


しゃくり上げて泣く私に、ハルは何も言わなかった。


何も言わず、聞かず、ただそっと寄り添ってくれた。


ハルの存在はとても心地よく、私の荒れ狂った荒波のような感情を穏やかにしてくれた。


泣き疲れた頃合いを見計らったように、ハルが言った。


「この伝説を教えてくれたのは、ローマ神話好きの祖母なんだ。もう、居ないけど」


しゅ、と肩をすくめてハルは続けた。


「去年の暮れに病気でね、他界したんだ。とても誠実で強い女性だった。ぼくは祖母を尊敬していたし大好きだった」


そう言って、ハルはおもむろにテーブルから黒縁眼鏡を取り、両手に乗せて見つめた。


「この眼鏡、祖母がくれた物なんだ」


眼鏡の黒い縁を、しなやかな指がするすると這う。


「どう? なかなかいいデザインだろ」


ハルのおばあ様は素敵な女性だったのではないかと思った。


黒縁眼鏡を見つめるハルの目が、とても純粋無垢だったから。


「素敵な方だったのね。ハルのおばあ様」


「祖母に会った事もないのに、なぜそう思うの?」


「そうね。でも、そんな気がするの」


すん、と鼻をすすって、私はハルの腕に触れた。
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