フィレンツェの恋人~L'amore vero~
ハルの腕は少しひんやりと冷えていて、泣いて火照った私の体温にはとても心地いいものだった。


「ローマ神話が好きだったなんて、洒落てるわ」


フフ、と楽しそうに笑って、ハルは言った。


「祖母はいくつになっても怖いもの知らずで、お転婆な少女のような人だった」


「そうなの?」


「うん。気が強くて、いつもしゃんとしていてね。怖いくらいだった」


でも、とてももろい人だった、ハルはそう言った。


「本当はとても弱い、可愛い女性だったんだ」


そして、片目のレンズが割れた眼鏡をかけて、続けた。


「祖母の口癖は、簡単に人を信じるな。家族の事も信じちゃいけないって言うんだよ」


――だってそうでしょう、ハル。アルテミスだって、実の弟にはめられたのよ


「って。人を簡単に信じたら自分が痛い目見るだけだって。だけど、こうも言った」


――この人は信じられると思ったら、とことん信じるといい。本当に信じられる人は、出逢った瞬間に分かるものよ


「東子さん」


「……は、い」


不意にハルと目が合った瞬間、ドキッとした。


ハルの目が怖いくらい綺麗だったから。


「だから、ぼくは、東子さんを信じるよ」


ならば、ハルは私と出逢ったあの瞬間に、何かを感じたというのだろうか。


何も知らない女なんかに、ハルは一体、何を感じたというのだろうか。


「でも、私はアルテミスよ。ひどい女なの。信じるなら、もっといい人にしなさいよ」


割れたレンズの向こうの瞳に、泣き疲れてへとへとの顔をした私がはっきりと映っていた。


情けない顔を、私はしている。


「いいよ、東子さんがアルテミスでも。かまわないよ。ぼくは信じる。東子さんの目を見た時、思ったんだ」


この人は誰の色にも染まらない、自分だけの色を持った人だと、そう言って、ハルは静かに目を反らした。


「実はこれ、だて眼鏡なんだ」


ハルが眼鏡を外す。


「度は入ってない。何でもない、ただの硝子だよ」
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