みだりな逢瀬-お仕事の刹那-


近所にある総菜屋さんは、庶民にささやかな幸せを与えてくれるすばらしいお店である。


もちろんスーツを脱いでショートパンツとTシャツに着替えて。邪魔なメガネを取り去り、髪の毛も適当なおだんごヘア。


気兼ねなく過ごせるここは、狭かろうがなんだろうが安住の地だ。


友人から“すぐに干物になるよ”と言われるけど、私は諸手を挙げて喜びたい。


――本当の自分でいられる場所がなければ、あと一体どこで深呼吸出来るのよ?


美味しいご飯にお腹も膨れたところで、傍らに放置していたスマホを手にする。


次いで通勤バッグの小さな収納ポケットに手を入れ、あるものを取り出した。


それは“お誘いカード”もとい、里村社長から頂いていた名刺だ。


社会人たるもの二度の失態は冒すべからず、と口酸っぱく言われていたけど。


連絡を怠るのは常識的に考えてあり得ない、と今頃でも反省するしかない。


スマホで簡単な挨拶と、明日のために必要な連絡先を入力。名刺に記載された直通(プライベート)アドレスへ送信した。


ホッとしてシャワーを浴びようとした瞬間、スマホが音で着信を告げる。


「――はい、Chain社の間宮でございます」

「固いなぁ」

「お電話では初めてですから」

「寂しいこと言うね」

通話相手は数分前にメールを送信したばかりの里村氏。……もはや彼は機敏すぎると思う。


「恐れ入ります。ところで里村社長、お仕事中ではございませんか?」

「うん、でも今はひとりだから安心して。朱祢ちゃんは?」

「はい、私はすでに帰宅しています」

「そうじゃないと連絡しないと思ったけどね」

そう屈託なく笑う彼に絆されるように、私の態度も自然と軟化していく。


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