ワイルドで行こう
「だからさ。いつも気をつけていた水溜まりにはいっちゃったわけよ。ま、そういうこと」
 急に早口になって言い切ると、彼が運転席に乗り込んでしまった。
「嫌なことあったからって煙草はやめておけよ。吸ってる俺が言っても説得力ないかも知れないけど。昨夜の徹夜明けの姉さん、格好良かったぜ。あのコートも似合っていたからさ。それも着て、頑張ってくれよな」
 ドアがバタンと閉まった。昨夜は嫌だったけたたましいエンジン音が響く。琴子が立っている前にある太いマフラーがブウンブウンと唸り、琴子に『そこどけ』とばかりに脅かした。
 驚いて飛び退くと、それと同時にギュギュッと黒いスカイラインが道に飛び出していく――。
「ま、まって……」
 でも。走り屋の男は去っていってしまう。琴子を熱くさせて、びっくりさせて。そして……感動させて。
 なにも、言えなかった。『ありがとう』しか言えなかった。なのにあの人――。『嫌なことがあったからって煙草はやめておけ。そのコートを着てまた頑張りな』なんて、昨夜、ちょっとだけ一瞬だけ肩を並べた女のことを、そこまで考えてくれた人。理解しようとしてくれた人。力尽きそうだった琴子のくたびれた姿を、あんなふうに言ってくれるだなんて。胸が熱くなっている?
 でも、きっともう……。
 彼の車のエンジン音が、まだ遠く聞こえている。
 静かになった煙草店の前で、琴子はもらったショップバッグを開けてみる。
 『やっぱり』。申し訳なく目を閉じた。
 三万円のグリーンコートと、どちらにしようか迷いに迷って諦めた『六万円のトレンチコート』だった。
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