ワイルドで行こう

「ねえ、そこに行ってもいい?」
 もうこんなに傍にいるのに、俺の腕の中にがっちり抱いているのに。なのに琴子が英児の胸元を指さして『ここに行きたい』と言う。勿論答えは『いいぞ』。なのだが、琴子が『行きたい』のは英児の胸元ではなく、英児の膝の上。ソファーに座っている男の両足の上に、彼女からずっしり乗っかってきた。
「琴子……」
 しかも彼女から、甘えるようにふわっと英児の首に両腕で抱きついてくる。
 またあの甘酸っぱい匂い。そしてわずかなトワレの残り香。夕飯後の家事で動いた後だからなのか、琴子の首筋もうっすらと汗ばんでいる。とんでもなくあの匂いが英児の鼻先で広がっていく。ガレージで制したはずの、男の欲望がまた盛り上がってくる。だが、まだ我慢、我慢……。少しは堪えることもしないと、と英児は言い聞かせる。
「昨夜は、寝ちゃってごめんね」
 昨夜の彼女は残業明けだったので、流石に相手にしてくれなかった。堪え性がない英児が彼女の肌を求めたのに、そんな謝られるとこちらが困ってしまう。
「いや。あれは俺が悪かった。残業明けだったのに……」
 首元にぴったり抱きついている琴子が、ふっと英児の顔をのぞき込む。
「私だって我慢したのよ。すっごくすごく。だって英児さんの匂いをかぐと、私、ムラってするんだから」
 平然とあられもないことを呟いた彼女の目を見つめ返す。大人しくて可愛らしい彼女だけれど、たまに妙に艶っぽい大人の女の顔になる。そんな時、彼女の黒目はしっとり濡れているし、頬はほのかに色づく。
「あの桜の夜は離れちゃったけど。その後、私を見つけてくれてありがとう。英児さん」
 静かに重ねられた唇。彼女がそのままゆっくりと英児の唇を吸った。
「好きよ、愛してる」
 あくまで彼女はゆったり静かに愛してくれる。英児なら、いつも素早く強引に彼女を奪うのに……。彼女は彼女らしく、ゆっくり穏やかに。でも英児の中に入ってくる甘い舌先は、とても熱く優しい――。
 これが彼女らしい。いつもそう思う。柔らかに琴子に愛されるひととき。男の膝の上に自分から座りたいとせがんでも、男からの愛をせがまない。そこから彼女は目の前の男を自ら愛してくれる。両手いっぱいに英児に抱きついて、柔らかいその女らしい肉体で英児を熱く包み込んでくれる。
 そんな彼女の頬を英児からも包み込み、体温と汗でしんなりと湿った琴子の黒髪をかき上げ、自分からも彼女の唇を静かに吸う。

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