SONG 〜失われた記憶〜

始動


     1

 翌朝、目が覚めたのはお昼過ぎだった。昨日は家に着いた途端、疲れがどっと出てしまい、そのまま眠ってしまった。

 テーブルの上にポツン、と置かれた花瓶にはかすみ草が生けられていた。言わずもがな、それは昨日章一から受け取った花束だ。きっと母か家政婦の珠代さんが生けてくれたのだろう。

 私はベッドから起き上がり、レースのカーテンと西洋風の小さな小窓を開けた。そこには手入れの行き届いた庭園が一望でき、片隅にバラ園が見える。そして中央にはささやかではあるが、テーブルセットがある。天気のいい日はそこでティータイムを楽しむことも度々。

「…あら、詩。起きたの」

 背後から部屋のドアが開いた音がして振り向いた。その柔らかで優しげな声はいつも私の心を和ませてくれる。年齢とは不釣り合いなほど純粋な心を持つ彼女は私を愛し、育ててくれた母親だ。名を柚葉という。世間一般的な世のお母様方よりも若々しく、煌びやかで一緒に歩いていると年の離れた姉妹と間違われるほどだ。

「ん、おはよ。…あと、おかえり」
「ただいま。もう、びっくりしたのよ? 玄関に詩の靴があるから、もしかしてと思って部屋覗いたらあなたがベッドで寝てるんだもの」
「ごめん、ごめん。…お花、生けてくれたの珠代さん?」
「ええ、枯れちゃうといけないからって」
「そう」
「さ、お腹空いたでしょ? 珠代さんにご飯作ってもらうから降りてらっしゃい」
「ん」

 母が部屋を出たのを確認すると私はTシャツとジーンズというラフな格好に着替えた。今日は夕方から今後のスケジュールの打ち合わせがあるだけなので着飾った格好をしなくともよい。

 部屋を出て階下へ降りる前に右隣にある部屋を訪れる。そこは黒で統一されたシックな部屋で広さは大体十畳ほど。綺麗に掃除が行き届いているところを見ると頻繁に珠代さんがこの部屋に訪れていることが窺える。部屋の奥にキングサイズのベッドがあり、そこに一人の青年が安らかに眠っている。彼こそ私の七歳年上の兄、ハル兄だ。端整なその目鼻立ちは父親譲り。ベッドの傍らに私には理解出来ない医療器具が数種類あり、それらが彼を生かしてくれている。今のハル兄にはこれらがなければ生きていけない。私たち家族のエゴで生かされている。もしかしたらハル兄はもう楽になりたい、と思っているのかもしれない。そう思うと胸が痛む。

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