ここから、はじめよう
第1章
それは、本当に偶然だった。

 入社当時はまだ社内に喫煙コーナーがあったものの、いまや「全館禁煙」とかで、煙草を吸いたければ玄関を出て、駐車場の一角に行くしかない。もちろん携帯灰皿は必須だ。全館禁煙になったばかりの頃は、そこにも何人もいたが、煙草の値上げだの子どもが生まれるからだのと何やかやで禁煙していくヤツが増えていき、今やこの喫煙スペースの常連は俺一人となっていた。
 12月の夜はさすがに身を切るような寒さだ。もう一本吸ったら、そろそろ仕事に戻ろう。冬の夜空を見上げながら、新しい煙草に火をつけた、その時だった。
「だから、仕事やって言ってるやろう!」
聞き覚えのある声が、不意に飛び込んできた。身体の向きを変えて見てみると、思った通り、黒沢玲だ。ビルの壁の陰になっているので、こちらには気づいていないらしい。
 いつもと違うイントネーションの言葉を聞きながら、実家にでも電話しているのかな、あいつ、関西の出身だったっけな、と思いつつ、煙草をふかす。
 しかし、耳に入ってくる電話の内容は、あまりのんびりしたものではないようだった。
「こっちはね、年末進行なの。いつもより仕事多いんやって」
「クリスマスだろうがなんだろうが、仕事なんだから仕方ないやんか」
「…誰も『逢いたくない』とか言ってないやろ?そっちやって勉強あるやろ?」
 …おいおい、修羅場かよ。俺がここにいちゃ、まずいんじゃないのか。それよりも、あの様子からすると、電話の相手はどう考えても恋人、だよな。あいつ、そんな相手がいたのか!?
 冷静沈着、入社2年目とは思えない仕事ぶりを見せる黒沢の、普段からは想像もできないその声に、俺は内心驚いていた。
 しかし、それよりも問題はこの場をどうするかだ。ここを早く立ち去るべきか、いや、今、立ち去ったら気配で気付かれやしないか、ひそかに焦り出したのだが、どうやら遅かったらしい。
「もういいっ!仕事に戻るから」
 電話を切った黒沢が、顔を上げたのと目があってしまった。

 彼女は、一瞬、何かを言いたいような顔をしたが、何も言わないまま、俺の前を通り過ぎようとした。
 何も聞いていないふりをして、そのまま見送るべきなのだろう。俺だって、最初はそうするつもりだった。
 
 
< 1 / 4 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop