ここから、はじめよう
「別にそう大げさに考えなくても…彼氏との約束なんだから、ちょっとぐらい誰かに代わってもらってもいいんじゃないか?なんだったら俺が…」
代わってやろうか、そう言いかけた言葉を彼女は「じゃあ」と遮った。
「じゃあ、白井さんはどうなんです?」
「俺?俺は別にそんな相手もいないし…」
「相手がいる、いないの問題じゃないんです」
電話の後、涙ぐんでいたんじゃなかったのか?険しい表情のまま、彼女は俺に尋ねた。
「白井さんは、イブに彼女と約束があれば、仕事よりもそちらを優先するんですか?」

 あぁ、そうか、と俺は思った。
 たとえイブだろうと、たとえ恋人との約束だろうと(現実にはそんな相手はいないが)、仕事があるのならば仕事を優先する。それは社会人として当然のことだ。俺が彼女に言ったことは、その当然のことをないがしろにしろ、というこ
とに他ならない。自分の仕事に誇りを持っている黒沢にとって、それは失礼千万な発言だったに違いない。俺が同じことを言われても、きっと同じように答えるだろう。
「…すまん。悪かった」そう思うと、自然と謝罪の言葉が出た。
黒沢はきょとんとした顔で首をかしげた。「何が…ですか?」
「いや、お前にも、お前の仕事に対しても失礼なことを言ったな、と思って」
一瞬、驚いた表情を見せた彼女は、「分かっていただけたんならいいんです」と笑顔を見せた。自嘲するでもない、無理に笑って見せたのでもない、今日いちばんの屈託のない笑顔だった。
 その笑顔が、一瞬、母親の最後の笑顔に重なって見えた。
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