甘い罠
木村が自分の記憶が飛んでることにはっきり気付いたのは、退院したその日、自宅に戻ってからだった

抱えてきた荷物もそのままに、ソファーに落ち着き、会社の後輩の田崎に電話をした

事故に遭ったことで致し方ないとはいえ、大事な取引先との交渉を、全て田崎に任せることになってしまったことが、気掛かりだったのだ


「うまくまとまりそうですよ」
田崎の言葉に、木村は安堵した

「でも一度、きちんと社長と一席設けなきゃな」

先方にも事情は話してあるとはいえ、一度くらいは担当である自分が接待しなければ、と木村は思った


「前の店が社長、お気に入りみたいっすよ」
と田崎は言った

「え?
前って…お前どこ連れてったんだよ?」


木村が不在の間、田崎がどこかで接待した際の店を、社長が気に入ったのだろうと木村は思った


「へ?

え…どこって、木村さんが連れてってくれた、あの…倉の花、でしたっけ?

あそこのことっすよ?

ほら、社長、日本酒の種類が豊富で喜んでたじゃないですか」


木村の頭に、三度目に交渉に出向いた時の情景が浮かんだ



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