あの子の好きな子


あのあと先生は、とりあえず今日は帰るようにと言った。本当はもっと一緒にいたかったし、いつものほうじ茶を飲みたかったし、もっと欲を言えばもう一度キスして欲しかったけど、これ以上わがままは言えなかった。先生が抱き締めてくれて好きだと言ってくれただけで、私には抱えきれないほど幸せだった。この上ない幸せと引き換えに、いくつかの約束を先生とした。
もう準備室には行かないこと。
学校では必要以上に接しないこと。
外でのデートも出来ないんだろうなと思うとだんだん悲しくなってきたけど、先生は、細心の注意を払って会える時には会おうと言ってくれた。そうでもしなきゃ、ただのひとときも接することができないから。ただ、少なくとも高校を卒業するまでは、我慢の方が多くなると言われた。当たり前だと思うし、今までよりもぐんと接点が減るのは少し寂しいけど、先生が私を想ってくれる事実さえあれば平気だと思った。

部屋に帰ったら、携帯を開いて電話帳をあけた。先生からの最初のプレゼントは、携帯番号。登録する名前は変えておくように言われたから、悩んだ結果ひらがなで「しの」と入れておいた。なんだか女の子みたいと思って一人で笑った。私は先生の携帯の中で、なんて名前になっているんだろう。

先生。
私の先生。
学校で会う篠田先生は、みんなの先生。生徒みんなの、理科総合の先生。ちょっと冴えなくて目立たない、のんびり屋の篠田先生。

だけど私の先生。チョークを置いて、教科書をたたんだ篠田悠一は、私だけの先生。優しくてあたたかくって、はにかんで笑う顔は教卓にいる時よりも子どもっぽい。私しか知らない先生がいて、思ったよりも大きいあの腕で、私をぎゅっとしてくれる。

先生。

あの子はあの人が好きで、あの人はまた別のあの子が好き。大体、そういう風に出来ている。あたりには一方通行の矢印ばかりが溢れてて、あっちを向いたりこっちを向いたり、意思とタイミングと偶然が混ざり合って向きを変える。いつもいっぱいっぱいで、みっともなくて恥ずかしいことだらけだったけど、好きを諦めないでよかった。絶対にこっちを向かないと思っていた矢印が、少しずつ傾いて、追い風も手伝って、やっとこっちを向いてくれた。

この1年間の自分に、ありがとうお疲れ様とつぶやく。これからは、矢印がそっぽを向かないように努めなければならない。でも私には自信があった。好きな人が振り向いてくれる、この奇跡みたいな幸福を、私はきっと忘れない。





          久 保 遥 香 の 場 合


< 187 / 197 >

この作品をシェア

pagetop