主さまの気まぐれ-百鬼夜行の王-【完】
もうきっとこれが最期の抱擁になる。


もう目も霞んで…息吹の顔がぼんやりしてしまってよく見えない。


強く抱きしめているはずなのに、自分の腕に力が入っているのかもよくわからない。


主さまは唖然としている息吹の頬を震える両手で包み込んで、ゆっくりと斜めに顔を近付けた。



「戻って来い…息吹…」


『…我は…我は…阿修羅だ…!』


「息吹…皆が、待っている…。だが…俺は…もう…」



とうとう身体の力が抜けて息吹に向かって身体が倒れ込み、反射的に勝手に息吹が主さまの身体を受け止めた。


――阿修羅は主さまを撥ね退けるつもりだったのに――身体の奥底から絶叫を上げた息吹の声が、身体を突き動かしたのだ。



“主さま”



凛とした声が阿修羅の耳元で木霊した。


主さま 主さま 主さま 主さま――


何度も目の前の男を呼び、阿修羅の意識を引き裂いてゆく。


『うるさい!うるさいうるさい、うるさい!』


もう主さまの意識は…ない。


息遣いもなく、事切れたのだとわかった瞬間――阿修羅は身体の奥から競り上がってくる恐怖に恐れ戦いた。



『そ、そなたは…っ』


「妾を…起こしたな」



さっきまでは“人とは少し違う”という程度の存在だった息吹の存在が…雰囲気が、変異した。


殺気を感じて頭上を仰ぐと、そこには…大きな大きな手が…長く鋭い爪の生えた手が、自分を握りこもうとするかのように振りかぶられていた。



『一体…何者だ…!?』


「せっかく永の眠りについていたというのに…起こしてしまったな。仕方ない、身体を馴らすにはちょうど良い。…参るぞ」


『う、ぉ…ぉおお!』



圧倒的な存在感を放つ大きな手に握りこまれた。

身体が粉々になり、散り散りになりながらも阿修羅はもがき怨嗟の呪いの声を上げた。


『我は、帝釈天に報復を…っ』


「うぬらのような生まれたての赤子の如き仏に妾が敗けるものか。報復はあの世でするが良い」


暗闇の中、阿修羅が散りとなって消えてゆく。

あと1歩のところだったのに――

呼び覚ましてしまったものは、起こしてはならないほど大きな力を持った者だった。


「去ね」


塵芥となって、消えていった。

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