絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
 そうやって、甘やかす。
 どうして、今更……。
 もう、会うこともないだろうに……。
 なんで、優しく……。
 もしかしたら、奥さんより優しく?
 だとしたら、自分に愛人をする度胸なんてあるだろうか……。
 真剣に考える。
 妻がいる。それを承知で彼を愛し、抱かれ、玄関口で帰らないでと拗ねることができるだろうか……。
「お客さん、着きましたよ」
 予想通り、すぐにマンションのエントランスに着く。香月はすぐに下車したが、足がそこから動かなかった。
 いくら愛し合っていたって、電話が鳴ればすぐに家に帰る。
 そんな愛人が、世間に公表できない擦れた役が果たして、できるだろうか……。
 次の車がエントランスに停車し、足はようやく動き始める。
 もし、もしもの話。妻が流産によって不妊症になったのであれば、自分は代わりに産むだろうか?
 榊が欲しいと言ったら、身ごもって、2人で生きていこうなどと、決心できるだろうか?
 足はついに自宅の玄関に入った。偶然靴を脱いでいたレイジがこちらを振り返る。
「え、どし……?」
 誰かに支えていてほしかった。そうでないと全てが崩れると思った。
 すぐにでもさっきの場所へ戻り、歩き探して、泣きながら抱きついてしまうと思った。
 後のことなど考えず、全てを投げ出してその元へ行ってしまうと思った。
「え? どうしたの?」
 とりあえずレイジに抱きつく。酒とタバコが混ざった男の匂いがする。
 そんなことを考えられるくらい頭は余裕を取り戻していたはずなのに、反対に声を上げて泣いてしまう。
「よしよし……」
 レイジは頭を撫でながら、とりあえず強く抱きしめ、抱きかかえてくれる。
 そのまま、レイジの部屋に入ると、もう声をあげて泣きたい気持ちは収ま
っていた。目を閉じると、すぐに眠気が襲ってくる。
「大丈夫?」
 彼はゆっくりベットに寝かせ、下駄を脱がせてくれる。
「どこも痛くない?」
 その問いに答える気にはならない。
「何か辛いことがあったんだね……」
 私は、辛かったんだろうか?
 だが、もうそんなことは既にどうでもよくなっていて。
 今はただ目を閉じ、深い眠りにつく体力しか残っていなかった。
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