ゼーメンシュ
旧友
ミハルはそうして黒服の老人の依頼を断ろうとしたが、「男の人魚」と言われてふいに旧友の姿が脳裏を横切った。
長らく連絡も同窓会にも現れない旧友は水泳部のエースだった。まるで魚のように美しく泳ぎ、プールで泳ぐにはあまりに狭すぎると思った。
その旧友は、今は陸に上がり、海外オペラの舞台で歌っている。

「まぁ・・・人探しならよそを当たっていただけませんか?」
ミハルは苦笑いをしながらこんな世迷いごとの依頼を断ろうとした。
「金はいくらでも出しましょう。」
老人は頑としてミハルの意見を聞かなかった。
「いえいえそんな、こっちが断ってるんですし、お金があるならもっと優秀な探偵事務所に任せたほうが・・・。」
「それに、これはあなたにしか出来ない仕事だ。」
静かに強い声で老人はミハルの言葉を遮り、懐からCDを取り出した。
ミハルの背筋に冷たい汗が流れる。
『女性が聴いてはいけない歌声。魅惑のオペラ歌手・古川孝一』
まさしく旧友の姿がそこにはあった。
ミハルは急に肩の力が抜けて、ソファーに深く腰かけた。
「え、あ、ちょっと意味が分からないんですけど・・・。」
困惑しているのは探偵であるミハルのほうだった。
「古川が・・・ゼーメンシュ・・・?」
旧友の名を口にした途端、ミハルの五感と記憶全てに古川の姿が蘇る。
プール上がりの塩素の香り、夕暮れの帰り道、楽しそうに歌う横顔。
そして過去の記憶と現在の活躍と、まるで童話の世界のような話がミハルの中で混沌とし、ミハルは頭の整理が追いつかず、ただ呆然と老人を見ていた。

「すいません・・・少し時間をいただけませんか?」
「時間がないのでございます。おぼっちゃまの命のために、ゼーメンシュが必要なのです。」
どうやらミハルには考える時間を与えられていないようだった。
そして、人の命に関わることと、人魚というキーワード。
「八百比丘尼(やおびくに)・・・。」
ミハルの結論は日本の八百比丘尼伝説へ行き当たった。
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