犬と猫…ときどき、君
苦しくて、苦しくて。
でも、俺じゃない。
一番苦しいのは、俺じゃない。
「春希、ごめんね」
ほんの少しだけ笑った胡桃の震える指がゆっくり伸ばされて、小さくそう呟いた唇が、一瞬俺の唇と重なった。
「ごめんなさい……」
俺の胸に顔をうずめて、胡桃が口にした謝罪の言葉は、一体誰に向けられたものだったんだろう?
俺なのか、松元サンなのか……。
「これで最後だから……っ」
その震える体を、もう抱きしめることも出来ない俺は、下を向いたまま、バカみたいに立ち尽くしていた。
自分のしている事が本当に正しいのかさえ分からなくなった頭に、さっきからただ一つだけ浮かぶのは……。
“全部ぶち壊したい”
出来るはずもない、そんなバカげた事。
「ごめん、城戸」
“城戸”。
深呼吸を何度か繰り返したあと、ゆっくりと顔を上げた胡桃のその言葉に、俺は息を飲む。
胡桃は前に進もうとしていて、きっともう、ここに戻ってくる事はない。
これでいいし、こうしないといけない。
それは分かっているのに……。
「城戸」
「……ん?」
「先帰ってて」
「胡桃」
つい口をついて出てしまったその名前に、一瞬胡桃が苦しそうな表情を見せるから、胸の中に、罪悪感がどんどん広がる。
「お願い」
こんな所に、胡桃を一人きりで置き去りになんて出来るはずないだろ。
「もし同じ部屋が嫌なら、俺がどこかに行くから。ネカフェだって、どこだって泊まれるし」
そう言った俺に、胡桃は赤い瞳のままクスッと笑う。
「違くて。せっかくだから、もうちょっとだけ見てたいなぁと思ってさ」
「……」
頼むから。
頼むから、そんな顔をしないで欲しい
「ちゃんと部屋には戻るよー。でも、きっともう見られないと思うから」
「――……っ」
俺だって、そうだよ。
きっともう、あの星は辛くて見られない。
「でも、危ないだろ」
「大丈夫。帰りもちゃんとタクシー拾うし」
胡桃がこんな風に言い出したら、絶対に聞かないっていうのは分かってる。
でも……。
「大丈夫だから」
「芹沢」
「……お願いだから――…っ」
俺の胸を軽く押し返した、今にも泣き出しそうな胡桃の表情に、俺は出かかっている言葉を飲み込む。
全ての事を、洗いざらい話してしまいそうになる自分を必死で抑え込んで……。
俺はもう、胡桃を抱きしめる事も、涙をぬぐう事さえ出来ない。
“同僚”に戻らないとと思いながらも、こんなの同僚以下だろうって……。
胡桃の瞳を見つめながら、しっかりと働かない頭の片隅で、そんな事を考えていた。