≡ヴァニティケース≡
「とっとっ、……蒔田さぁん、どうしました。何か虫の居所でも? まあほら、トイレは急いで入る所で、急いで出る所ではありませんよ」
長身の石田が上から見下ろすようにして尋ねた。出会い頭のニアミスに彼も驚いたらしい。寸前で身をかわしたものの、二人の距離は10cmもなかった。さすがの石田も優しい応対は出来ない。気持ちその言葉には嘲りの色さえ滲んでいた。
「いえ。わては行儀が悪いでっさかいに、堪忍したっとくんなはれ」
言葉だけは丁寧に、だが態度は横柄に蒔田はその場から立ち去ってしまう。革靴の鳴る音だけが廊下に響いていた。
「まったく! いつもいつも騒がしい男だよ」
石田は蒔田の立ち去った廊下を睨んだ。その眉間には、彫刻刀で切り出したような深い皺が刻まれていた。彼との間にどのような因縁が有るのか。だが、佇む石田のゴム靴は何も答えない。
やがて石田も踵を返し、研究棟に続く渡り廊下へと消えて行った。タイルの反射が翻る白衣の影をゆらゆらと写していた。