≡ヴァニティケース≡

「ではお呼びするかな……ああ、わたくしです。お知らせいたしました通り、準備が整いました」


 声だけしか聞こえないが、男が誰かに電話をしている。


「……ええ、それは間違いありません。あやつの言っていた通りです。……はい、はい。ではお待ちしております」


 声が途切れ、男の気配が近付いてくる。頭上側から美鈴を見下ろした。黒縁眼鏡にぴっちりとした七三分け……そう、半地下になった喫茶店で作業服姿の男と話していた、あの男である。


「大城美鈴さん」


 男は片頬に冷たい笑みを浮かべて、中指と薬指で眼鏡をずり上げた。脂の浮いた額に照明の光が反射して、まるで焼きたてのバターロールのようだ。


「貴女には何の怨みも無いんですが、すみませんね。これも仕事なんです」


「んん! んーんー!」


 美鈴は言葉を発しようともがいたが、口を塞がれているのでそれは叶わない。頭では解っていても、つい抵抗してしまう。この場面で理性と感情をすり合わせるなど、所詮無理な相談だった。



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