≡ヴァニティケース≡
「戻ってきやはらへん。どないしはったんやろ……」
幾らか躊躇ったすえ、鈴奈は糸に引かれるように車を降りてしまった。家は、使用人は、愛する夫と娘は?
慎重に、様子を窺いつつ門を潜ると、人ひとり分程の隙間を覗かせて引戸が開いている。明るい日差しの中にあった瞳では、まだ中の様子までは判然としない。
「……誰ぞおらへんの?」
恐る恐る声を掛けてみた。すると、
「お、奥様……」
薄闇の中から男の声が聞こえてくる。すぐに目が慣れて、上がり框に呆然と立ち尽くしている運転手を見付けた。
「なんぞ有ったんどすか」
履き物を脱ぐのももどかしかった。気ばかりが焦って、体が思うように動かない。それでも鈴奈は廊下に駈け上がろうとした。
するとそこへ運転手が縋り付く。
「中はあきまへん! 奥様はこちらにっ!」
彼のただならぬ様子を見て、鈴奈は半狂乱になりながら裾を振り乱して叫んでいた。
「何を言うといやすの、貴方!」
「奥様後生だす。聞き届けたっておくんなはれ」
止められる意味が解らなかった。この家を守るのは妻の役目だ。そして娘を守るのは母の役目だ。仮に家族に何かがあったのなら、今自分が行かなくてどうする。