≡ヴァニティケース≡

 暫く……時間で言えばほんの数分足らずのこと。鈴奈は【押し込み】の意味すら理解出来ずにいた。言葉が表す事象は解っていても、それを現実に置き換えるのが困難だったのだ。


「で、でも、こうしちゃおれへん」


 やっと自分を取り戻し、長い廊下を転げるように走った。不安と恐怖で胸の動悸が喉元まで上がってきて、目が霞むほどに息苦しい。すると進むにつれ、居間から運転手の声が聞こえてきた。


「……ですわ。こないなえずくろしい(グロテスクな)有り様は見たこともおへん。早よう来たっとくだはれや、早よう!」


 警察に連絡しているのだろう。受話器を持つ彼の背中は酷く震えていた。声も上ずり、呼吸も浅い。背後を通る鈴奈にも気付いてはいないようだ。



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