桜ものがたり
 月日は廻り、光祐さまは、三十二歳の桜の季節を迎えていた。

 光祐さまが桜河電機に入社して十年が経ち、工場長を経て、

現在では副社長としての貫禄を示していた。

 土曜日の春の夜、光祐さまは、家族を連れて都の音楽会に出かけた。

 音楽ホールのロビーで取引先の重役と顔を合わせた光祐さまは、優祐と祐雫を

ロビーに待たせて祐里を伴って席を立った。

「祐雫、手洗いに行ってくるけれど、ひとりで大丈夫ですか」

「ええ、優祐こそ、迷子にならないように」

 優祐は、祐雫を気遣いながら手洗いに席を立った。

 祐雫は、双子の優祐に大人びて注意して、ロビー中央の熱帯魚の大きな

水槽を見つめていた。

「もしかして、桜河の・・・・・・」

 突然、白髪の紳士が声をかけてきた。

「はい、桜河祐雫と申します」

 名前を呼ばれて、祐雫は、椅子から立ち上がり礼儀正しく会釈を返した。

「母上さまは、祐里さんですか」

 紳士は、驚愕の表情で祐雫に問いかけた。

「はい。おじさまは、母をご存知でございますか」

 祐雫は、はじめて会う紳士を見つめて(どなたなのかしら)

と頭の中で考えていた。

「ずっと以前に、父上さまと母上さまにお会いしたことがあります。

 祐雫さんといわれたね、母上さまにそっくりですね」

 榛文彌は、かつて恋した祐里の子と巡り合った。

 こころの枯れ木が一斉に芽吹いたように感じられ心臓が高鳴っていた。

 目の前に立っている祐雫は、はじめて祐里を見初めた年頃くらいだろうか。

 口元の愛らしさが祐里にそっくりだった。

「さようでございますか。

 どちらかと申しますと、祐雫は、父に似ていると言われます」

 祐雫は、紳士的な物言いの文彌にこころを許して気兼ねなく受け答えをした。

「そう、父上さまに」

 文彌は、祐雫の中に光祐さまの存在を感じた。

 真っ直ぐに瞳を見つめて物怖じなく話す姿は、生まれながらに桜河の血筋を

ひく光祐さまそのものだった。

「おじさまは、お一人でございますか」

「うむ、一人だよ」

 文彌は、小鳥が囀るように話す祐雫の愛らしい口元を見つめてしあわせな

気分に浸っていた。

 文彌は、十数年近く自ら閉ざしていた感情の扉に鍵を差し込んで開錠した。

「父上さまが戻っていらしたわ。

 おじさま、ここでお待ちくださいませね。

 父上さまと母上さまを連れて参ります」

 祐雫は、光祐さまの姿を見つけ駆け寄って行った。

 文彌は、祐雫の後姿を追いながら、光祐さまと祐里に気付いてロビーの

柱の陰に身を隠した。
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