桜ものがたり
  それから数日後の暖かな午後に執事の遠野が副社長室の扉を叩いた。

「失礼いたします。お約束をなされておりませんのでお断り申し上げたのですが、

銀行の方が是非とも、坊ちゃま・・・・・・失礼いたしました、

副社長にお目にかかりたいとのことでございますが、どういたしましょうか」

 遠野は、光祐さまを幼少の頃から「坊ちゃま」と呼び親しんで来たので、

口を滑らせて赤面し、少々困った顔を光祐さまに向けた。

「銀行の方ならば、経理部か社長に伝えておくれ」

 光祐さまは、企画書から遠野に視線を移した。

 遠野は、総合職では社長の右腕の役割を担っており、光祐さまも学生時代に

別邸で世話になって信頼をおいていた。

「社長は、商工会に外出中でございます。

 それに取引先の銀行の方ではございません。

 是非とも副社長にと申されております」

「営業で来られたのであれば、尚更経理部か社長でなければ・・・・・・

何処の銀行なの」

 光祐さまは、腕時計に目をやり企画会議の時間が迫っているのを確認した。

「予定が詰まっていると何度もお断り申し上げたのですが、

榛銀行本店営業部長の榛文彌様でございます」

 遠野は、十数年前の身辺調査を思い出して恐縮しながら光祐さまに

名刺を差し出した。

「榛……分かった、ここに通しておくれ」

 光祐さまは、複雑な気分で名刺に目を走らせながら、祐里の見合い相手と
して

突然現れた時の傲慢な態度を思い出していた。

 遠野は、光祐さまに恭(うやうや)しく一礼すると、間もなく、榛文彌を

案内して戻って来た。

「突然に伺いまして、申し訳ありません。

 本店に十数年ぶりに戻って参りましたので、ご挨拶に伺いました」

 扉から入るなり文彌は、白髪の頭を深々と下げて丁寧にお辞儀した。

 光祐さまは、文彌の落ち着いた態度に接して違和感を覚えていた。

 以前の大蛇のように敵意を剥き出しにした激しさは

どこからも感じられなかった。

 風の便りで聞いた遭難事件からの性格の変化は、本当だったらしい。

「ご丁寧にありがとうございます。榛様、どうぞ、おかけください」

 光祐さまは、机から立ち上がると、文彌に椅子を勧める。

 文彌は、桜河家の輝かしい君を見つめていた。

 仕立てのよい濃紺の背広姿の光祐さまは、若さと逞しさと自信を覗わせていた。

 正道を真っ直ぐに歩んできた清さが漲っていた。

 十数年前の高等学校を卒業したばかりの庇護された青さはどこにも

見当たらなかった。

 しかし、この桜河家の君は、幼少の頃から庇護されながらも運命を手中に

する強さを内に秘めているのが感じられた。

 遠野が紅茶を応接台の上に置いて、一礼すると静かに退出した。
 
 しばらくの間、沈黙が副社長室を占めていた。
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