愛を教えて
だが……渋江の表情は万里子の予想とはまるで逆。どちらかと言えば、心苦しそうな顔をしている。

万里子はそれ以上、渋江を問いただすことはできなかった。


肩を落として万里子はフロアに戻る。

父は普段と変わらぬ笑顔で、東西銀行の副頭取と話している。とても、会社が窮地にあるとは思えない穏やかな顔つきだ。

もしそれが万里子のためであるなら、自分に何ができるだろうか?


二年、たった二年だと卓巳は言った。

それに、ベッドは別、万里子には指一本触れないと言っていたが……。それが守られる保障などどこにもない。入籍を済ませ戸籍上の妻となれば、夫婦生活はあって当然だろう。

暗い表情で廊下を歩く万里子に、トンと人が当たった。


「おっと、失礼」


すれ違い様、見知らぬ男性と肩が触れた。
ただ、それだけである。
だが――万里子は咄嗟に身を竦め、廊下の端まで飛び退いていた。

そして壁に張り付き、剥き出しの肘から下を、震える指で抱え込む。
万里子は逃げるように廊下を走り、テラスを抜けて中庭に飛び出したのだった。


(やっぱり無理よ。絶対に無理だわ)


万里子の頭の中をその言葉がグルグル回った。

もし父の会社が倒産したときは、大学を辞めて働こう。人生は長い。教師になる機会はきっとある。家を手放すことになっても、父と一緒なら頑張れるはずだ。

偽装結婚の話は断ろう。そう心に決めたとき、万里子の瞳に卓巳が映った。


< 22 / 927 >

この作品をシェア

pagetop