愛を教えて
「狭い部屋でごめんなさい。客間なら、もう少し広いんですけど」

「狭い? 僕が大学時代に住んでたアパートに比べたら、軽く倍はあるよ」


シャワーから出たばかりの卓巳は、万里子の隣に立ち、今までで一番柔らかい笑顔を見せた。

その瞬間、卓巳の前髪から数滴、雫が落ちる。
卓巳の髪は漆黒だった。濡れると余計に黒く艶めいて、男の色気を感じさせる。

普段ならお客様の相手は忍の役目だ。
しかし、卓巳は万里子の夫。忍はシャワーから出て来た卓巳を見た途端、気を遣って部屋から出て行ってしまった。


「そ、そんなに、小さなお部屋だったんですか? お、お母様と暮らしていたときもですか?」


万里子は自分の声が裏返っているのに気づき、恥ずかしくなった。

だが、卓巳は気にも留めていないらしい。
部屋の中をキョロキョロと見回しつつ、ごく普通に返事をした。


「母と一緒のときは、もう少し広かったかな。ひとりになると、きちんとした身元保証人が用意できなかったからね。ちゃんとした部屋は借りられなかったんだ。エアコンどころか、扇風機すらない夏もあったな」


部屋のほぼ中央に、楕円形の白い折りたたみ式テーブルがある。

卓巳は壁に飾られている賞状をひとしきり見て回った。
小学生絵画展佳作、書道展特選、中学生標語コンクール金賞など。最後に学習机に置かれた写真立てを手に取る。

造花で飾られた看板に『聖マリア幼稚園入園式』の文字が。そこには四歳の万里子が、両親に手を引かれ満面の笑みで写っていた。

写真立てを戻すと、彼は白いテーブルの横に置かれた合皮製のフロアソファにどっかと座り込む。


< 244 / 927 >

この作品をシェア

pagetop