愛を教えて
渋江頭取が散会の挨拶を終え、それぞれ引き上げ始める。


万里子は玄関口で待つ父のもとに、ゆっくりと歩いて行った。

化粧は直したが、手の震えは治まらない。そのせいで、万里子は何度も口紅を塗り直した。

卓巳の姿は見えない。このまま見逃してくれたら、万里子がそう思ったときだった。


「万里子さん。明日のご予定は? 大学に行かれるのですか?」


狩人が仕留めた獲物を諦めるはずがない。卓巳は玄関の外からこちらを覗き込んでいた。

万里子はワンピースに合わせた白いパーティバックのチェーンを握り締め、必死で平静を装う。


「いえ……明日は土曜ですから」

「では、朝九時にお迎えに上がります。千早社長、明日、お嬢さんをお借りいたします」


万里子の父、千早隆太郎にとって、寝耳に水の話であろう。


「は? え、あの、それはいったいどういう意味でしょう?」

「昨今の待機児童の問題から、社員向けの保育施設を検討しています。貴重な戦力である女性社員を確保するために、実現可能かどうか……現場ではどんな問題が発生しているのか、万里子さんにお話を伺いたいと思いまして。僕の身近にはそういったことに詳しい女性がいませんので」


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